第57代:陽成天皇期(876年~884年)
【陽成天皇】・・・869-949。清和天皇第1皇子。3ヶ月で立太子、9歳で譲位される。母は藤原高子であり、藤原基経の妹。
複雑な経過を経て(基経と高子の争いがメイン?)、結果的に基経に退位させられ、光孝天皇(55歳)に譲位。
乱暴者としても有名。
876 | 清和天皇から譲位され陽成天皇即位 |
878 | 元慶の乱 (東北) 出羽国で起きた俘囚の乱。陸奥国からも援軍が送られた。 |
883 | 宮中殺人事件(これが直接的な引き金とされ退位させられる) 房総半島で4度目の俘囚の乱 筑後で受領殺害事件 |
884 | 光孝天皇に譲位 |
画像はwikipediaより。
退位したきっかけが「宮中殺人事件」である。
⑬「つくばねの 峰よりおつる 男女川(みなの川) 恋ぞつもりて 淵となりける」
「陽成朝に入ると、従来型の群盗と王臣子孫の群盗の双方が、手がつけられないほど凶悪化してくる。」
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」
陽成は退位後65年間生き続けるが、やっていることは王臣家人の有閑弓騎と変わらない乱暴。
陽成は朝廷の腫物であり続け、朝廷を蝕んだ。王臣子孫の無法が宇多朝を境に目に見えて悪辣の度を増し、収拾不能に陥った一因は、間違いなくそこにある。
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」
俘囚の乱
「三十八年戦争の終結から七二年も経つのに、俘囚は三〇~四〇人程度で、国司軍の千人に勝つほど強かった。これだけの戦力差は、俘囚がまだ蝦夷の騎射術を伝えていたことを推察させる。」
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」
元慶の乱が有名だが、俘囚の乱は常に存在。
受領殺害事件
この時期、受領殺害事件は珍しいことではない。それくらい地方は退廃していた。
ただ、
「対馬守の立野正岑の射殺事件(857年)では犯人が郡司富豪層だけだったが、今回の事件(883年:筑後守都御酉射殺事件)では、あらゆる階層の有閑弓騎の不満分子が、任用国司を核に結集し、受領を殺した。」
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」
というのが重要。
平将門の方が穏便なくらいだそうです。