~只今、全面改訂中~

☞【なぜ日本は北部仏印進駐したのか】「欧州大戦と日独伊三国同盟」(『昭和陸軍の軌跡』§7.)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「なぜ日本は南進したのか」です。

日中戦争を長期化させる原因はイギリスであり、イギリスを敵国と認識しておりましたが、南進の理由は援蔣ルートの遮断というよりは、「次期大戦に向けての資源」でした。

以下、「昭和陸軍の軌跡」第7章「欧州大戦と日独伊三国同盟」をベースにさせて頂きました。

第7章:欧州大戦と日独伊三国同盟ー武藤章陸軍省軍務局長の登場

1.総合国策案の策定と大東亜新秩序建設

★1939年9月4日、阿部信行内閣は欧州大戦不介入を表明。

(間もなく辞任→米内内閣に。)

※30日に軍務局長になった武藤章も同様に不介入を表明。この時期の武藤の考えとして注意を引くのは日中戦争を「平時」ととらえていること。あくまでも本来の敵は来たるべき世界大戦での欧米列強と言う認識。

よく日中戦争の解決が困難で南方進出した、という記述があるが、最初から次戦に向けてがメインであった。南方進出は援蒋ルート遮断の目的もあったが、それを「看板」として東南アジア全体を含めた自給自足的経済圏の形成を図ろうとした。)

※「梅工作」…汪兆銘政権の支援。「桐工作」…蒋介石との直接交渉。武藤らはこれらにより日中和平を目指す。

コチラも。

★1940年3月、近衛新党結成の動き。近衛文麿、木戸幸一、有馬頼寧ら。

※武藤の考えは一国一党。武藤もこれに賛同。しかし、近衛とその周辺は批判を恐れて腰砕けとなり断念。

★1940年10月、近衛内閣は大政翼賛会設立。

※当初、新党結成をめざした新体制運動は政治的指導力をもたない単なる精神運動組織としての大政翼賛会を生み出して終息し、武藤らの望んだ「強固なる政治指導力」の創出は実現し得なかった。

なぜそうなったのかはコチラも:昭和史講義

★1940年5月、現地軍の要望により中国駐留軍増派。

※武藤らは削減していこうと考えていたが。

★武藤ら陸軍中央の対外政策は東アジアにおけるイギリス勢力駆逐を明示。

※対ソ連は当面、安定化を求める。アメリカとはこれ以上の悪化を防止するとともに、経済力を拡充してアメリカ依存からの脱却を目指すとした。

イギリスに対しては明確に「極東より駆逐する」とした。これはイギリスが中国において最大の権益を有していたことと、蒋介石の最大の支援者と考えられていたためであるが、アメリカとの関係性には注意を払うとした。

日中戦争の解決のために南方に進出したのではなく、あくまでも次期大戦に向けてである

イギリスは明確に敵国として認識

大政翼賛会は「強固な政治指導力」をもったものではなく、実質は「単なる精神運動組織」になってしまった。

2.南方武力行使論と独英戦の行方

★1940年6月22日、フランスがドイツに降伏。

※6月中旬に「総合国策十年計画」がまとめられていたが、欧州情勢をリアルタイムに反映したものではなかった。7月に新たに「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定。ここではイギリス「だけ」を相手として、アメリカとの戦争は努めて「避ける」方針が書かれた。

★アメリカは孤立主義と、イギリスの植民地のための南方に介入してくることはないと考えていた。

仏印進駐は援蒋ルート遮断目的ではなく、大東亜新秩序のため

満蒙対策についても五族協和などは後付であり、本質は支配。大東亜生存権も結局はそれ

(のちの1943年5月、東条英機内閣はマレー、シンガポール、インドネシアを資源供給地として日本の領土とすることを極秘に決定していたりもする。)

★一方、海軍は対英戦=対米戦になると考えていた。米内内閣は独伊との軍事同盟は消極的であったがため、武藤ら陸軍中央は畑陸相を辞任させ、内閣総辞職に追い込んだ。

★1940年7月22日、第2次近衛内閣成立。

★1940年9月23日、日本軍部隊が独断で北部仏印進駐開始。

※援蒋ルート遮断目的で協定交渉中に。もともと強硬派であった冨永作戦部長は制止せず。これにより冨永作戦部長は更迭。10月10日、田中新一が作戦部長に。以後、武藤と田中により牽引。

※東条陸相は長く中央を離れていたため、独自の構想をもっていなかった。武藤ら陸軍省軍務局と田中ら参謀本部作戦部は世界戦略をめぐりしばしば対立することになる。

★1940年9月27日、日独伊三国同盟締結。

なお、これは陸軍がリードしたものではなく近衛首相支持のもと、松岡洋右外相主導で行われた。(ただ、南方進出に際して独伊の助けが要るとして武藤らも容認。)

コチラも:昭和史講義

★1941年4月、日ソ中立条約。

※これには武藤も大絶賛。これで米国も参戦しなくなるのではないかと。この時期は米英の覇権に、日独伊が挑む状況で、中立を保っていたソ連が日独伊側につくことでより日本は有利に。

1941年6月、独ソ戦開始

※これにて全て打ち破られる。

★北部仏印進駐は「援蒋ルート遮断目的」ではなく「資源目的」で行われた。

★北部仏印進駐で単独行動を行った富永が更迭され、田中新一が作戦部長に就任。武藤と田中は一夕会出身であったが、世界戦略をめぐってしばしば対立する。

★1940年、松岡外相により三国同盟締結。1941年、日ソ中立条約。日独伊ソの「四国同盟」は「独ソ戦」開始により幻に。

★米内内閣は対英戦をめぐる陸軍との認識相違から、閣内不一致となり解散。再び近衛内閣となる。

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