こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「摂関政治の実像」です。
「摂関政治」に関しては「藤原氏が摂政、関白となって天皇を強い力で補佐した」というイメージを持っておりました。
大筋でそれは正しいものの、正しい知識とは言えない、という点がわかりました。
以下、古代史講義(大正大学文学部教授、榎本淳一先生)を参考にさせて頂きました。
「藤原道長の地位は内覧・左大臣がほとんどなのに、なぜ摂関政治の最盛期と言われるのか?」
まず、全く知らなかったのが藤原道長の役職です。
「道長時代」=「摂関政治の最盛期」と言われるからには、摂政か関白のどちらかと思いきや、
道長の執政期(995~1017年)22年において、「摂政」の地位にあったのは最後の1年あまりでした。
では、道長は何だったのかと言いますと、
彼はほとんどの期間において「内覧・左大臣」でした。
「内覧」は「准関白」と言う認識だそうです。
【摂政・関白と内覧の違い】
摂政・関白が天皇の外戚であり、太政大臣が就いたのに対して、内覧は左右大臣や大納言でも就任が可能であった。摂政・関白は公卿会議に参加できないが、内覧は参加できた。近年の研究では摂政、関白は「内覧」の職掌、権能を強化拡大する為に生まれたことと結論づけられた。
また、「内覧」とは読んで字の如く、「天皇に先立って政務関係文書に目を通す」仕事を言い、これこそが「摂・関」の重要な役割であったことを考えれば、「内覧・左大臣」の地位にあったとしても、藤原道長の執政期が「摂関政治の最盛期」と呼ばれることも理解できます。
もっとも、「摂関政治」というより「摂関&内覧政治」と呼ぶ方が適切でしょうがね。
「誰からが摂関政治なのか?」
また、教科書では摂関政治の開始は「10世紀後半」としていますが、「9世紀後半」とする見方も存在します。
(※9世紀後半の摂政というと、藤原良房、その後継者、藤原基経。10世紀前半は藤原忠平)
そのため、「9世紀後半」を摂関政治のはじまりとする見方では、9世紀後半から10世紀前半を「前期摂関政治期」、
10世紀後半から11世紀頃までを「後期摂関政治期」と区別するそうです。
「前期」と「後期」はどう違うのか?
「前期」は宇多天皇、醍醐天皇、村上天皇の親政の時期もあり、摂関も常置されていたわけではありません。
また、摂関は太政大臣が就くものと決まっておりました。
一方、969年安和の変以後にもあたる「後期」は摂関がほぼ常置されるようになりました。
藤原忠平の孫、藤原兼家が摂関に就任した時期(986年~990年)が大きな変節点と考えられております。
※ちなみに「安和の変」時の摂政・関白は藤原忠平長男「藤原実頼」。
しかし、のちに権力を握ったのは次男・師輔の系統の方であった。
前期摂関政治期 | 後期摂関政治期(ほぼ常置) | |
人物 | 藤原良房(866-872:摂政) 藤原基経(876-884:摂政、887-891:関白) 藤原忠平(930-941:摂政 、941-949:関白) 藤原実頼(967-969:関白、969-970:摂政) | 藤原伊尹 藤原兼通 藤原頼忠 藤原兼家(986-990:摂政、990:関白) 藤原道隆 藤原道兼 藤原道長(1016-1017:摂政) 藤原頼通(1017-1020:摂政、1020-1068:関白) 藤原教通 藤原師実(1075-1087:関白、1087-1091:摂政、1091-1094:関白) 藤原師通 藤原忠実(1106-1107:関白、1107-1114:摂政、1114-1121:関白) 藤原忠通 ・・・以後も続く |
「藤原兼家」以降とは?
さて、その具体的に道長パパの時代にどう変わったのかと言いますと、
①摂関の地位が律令官職を超越した
②摂関と太政大臣が分離した
③摂関と藤氏長者が一体化した
と言われております。
これらにより摂関一族が隔絶した待遇を得て、その地位を独占し、「摂関家」という家柄が誕生したのです。
石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」11巻より。父・兼家の主導した「花山天皇出家事件(寛和の変)」に際して道長が発したセリフ。 兼家はその兄との不和により10年間雌伏の時代を過ごしていたが、これで浮上した。【花山天皇時代:コチラも】
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