~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「672年、壬申の乱」です。

背景には外交方針の違いがあったと考えられるようになりました。

以下、壬申の乱のポイントを『古代史講義戦乱篇(2019)』第5講( 元宮内庁京都事務所長、北啓太先生)を参考に書かせて頂きました。

★壬申の乱の背景には外交方針を巡る意見の相違があったと考えられている。

★大海人皇子が勝利した原因は、
・いち早く不破と鈴鹿を閉鎖して東国の兵を動員できたこと、
・白村江の戦以降、天智朝への不満分子を取り込んだこと
などが挙げられる。

【①大海人皇子の吉野隠遁はブラフだった】

★天智天皇の弟である大海人皇子が「次期天皇」という説は現在では後退しています。それでも皇族筆頭でした。

★668年、宴の席で大海人皇子が突然長槍で敷板を貫くという事件がありました。天智天皇は怒って殺そうとしましたが、一方で、大海人皇子は天智天皇が大友皇子(天智息子)を重んじ出したことに腹が立っていました。

★671年1月、大友皇子(24歳)が太政大臣となりました。大友皇子は家格で劣る(伊賀の地方豪族の娘を母)ものの、立派な風采で、博学多才、亡命百済人ともよく交わり有力者となっていました。

★一方、白村江の戦の後に進められた天智天皇の中央集権体制に反感を持つ豪族も少なくなく、彼らは大海人皇子を支持します。

★671年10月、病床に伏した天智天皇が大海人皇子を呼び、「皇位を授ける」と言います。天智の真の策略を見抜いた大海人は「吉野に隠遁する」と願い出ます。これは有名なシーンですが、どうやら信憑性が疑わしい。ただ、実際に、大海人皇子は吉野に隠遁し、朝廷も大海人皇子への警戒・監視は緩かったです。

★12月、天智天皇死亡。

★672年6月、大海人皇子、動き出す。「壬申記」には「朝廷が先に兵を集めた」とありますが、大海人皇子の方に計画性があったと考える方が自然。(吉野に行った時点で既に計画性があったと考える。)

★672年7月頃、各地で戦闘開始します。朝廷軍は内紛もあり、主力メンバーであった山部王は蘇我果安と巨勢比等に殺されました。大海人皇子に投降するものもいました。

★朝廷精鋭軍も活躍しましたが、それも緒戦だけであり、東国の軍を味方につけた大海人皇子が勝利しました

【②いち早く岐阜県不破関を遮断したことで大海人皇子が有利に】

大海人皇子は吉野から鈴鹿、桑名を通り、不破を目指しました。そこで不破道を閉塞し、東海、東山道で「動員の遣い」を出しました

※紀阿閉麻呂、田中足麻呂、大伴馬来田ら、多数の豪族を動員。

★不破と鈴鹿を素早く閉塞することで朝廷と東国を遮断し、東国の軍事力を自己のものとすることに成功したことが大海人の勝因の1つと考えられております。

関ヶ原町歴史民俗資料館HPより。ここ、是非、行ってみたい!!ただ、リニューアルオープンする2020年7月以降が狙い目!!

不破関資料館の紹介は【コチラ】から(上記写真も)。関ヶ原も同地域である。・・・無性に本郷先生の本が読みたい!

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感想(2件)

【③唐に服従する大友皇子と、反発する大海人皇子】

★668年、高句麗滅亡。その後、唐と力を伸ばした新羅が敵対します。

★671年、唐と新羅、双方から使者が来て、日本に援軍を要求しました。

★このときの「外交方針の違い」が壬申の乱の背景にあったと考えられています

♨すなわち、唐を支援する天智・大友と、唐の支援をしないとする大海人皇子の違い。【コチラ:超日本史

★天武朝では新羅と親密な関係を保つ一方、遣唐使は派遣されなくなりました。

★国際情勢は安定し、その間に内政改革が進みました。

(部曲の廃止、食封の改定、新冠位制度、八色の姓、豪族の統制など)

★天武天皇は「壬申の乱」を「新しい皇統の誕生」と位置づけたがりましたが、実際は天智朝の後を継ぐ形で天武朝のもとで倭国はさらなる中央集権国家へと進むこととなった

天智の時より中央集権化に成功しちゃった。

天智天皇時代:コチラ

天武天皇時代はコチラ

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