こんにちは。
今回ご紹介しますのは、上垣外憲一先生の「勝海舟と幕末外交ーイギリス・ロシアの脅威に抗して」(2014年、中公新書)です。
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「クリミア戦争が極東でも行われていた」なんて、世界史でも習わないことだらけでを勉強になりました。
その過程で対馬がロシアかイギリスに占領される可能性があったのですが、よく回避できたんですね…
それが、1861年の「対馬事件(ポサドニック号事件)」です。
まず、その前に、当時の世界状況ですが、英仏vs露の「クリミア戦争」(1853-56)、英仏vs清の「アロー戦争」(1858-60)がありました。
クリミア戦争で英仏と露はカムチャッカ半島の軍港ペトロパブロフスクをめぐって極東でも戦争し、この際はロシアが防御に成功しました。
続くアロー戦争では一時、英仏が劣勢にまわった時があったのです。
この時期に日本国内では「反英」を明確にしました。
しかし、ロシアのムラヴィヨフによる恫喝外交により「反露」となったため、最終的に「親米」を目指して遣米「大」使節団を送った、という流れになります。
ロシアはクリミア戦争の直後で清の味方になる可能性はあったのですが、戦わずに北緯43度以北、沿海州など広大な領土を得るという選択をとりました。
一方、日本に対しては樺太要求などプレッシャーをかけます。
そのような状況下で1861年1月15日、「ヒュースケン殺害事件」が起こりました。
これにより英仏は江戸湾攻撃、対馬占領などを実行する可能性があったのですが、事件の当事国であるアメリカのハリスが穏便な処置をしたことで回避されました。
この間、英仏に先手を打って、ロシアが対馬を占領したのが3月13日「ポサドニック号事件」です。
ロシアにとってアニワ湾、函館、対馬は極東の軍事上の要衝でした。
ここが他国に渡るのはどうしても避けたかったのです。
一方、日本は、勝海舟らによって、対馬からロシアもイギリスも撤退させるというウルトラCを実現させました。
これが本書の大筋です。
アメリカは英露のどちらにもくみしないという点でパートナーとして有力でしたが、1861年4月からの南北戦争勃発により日本の政治台から消えました。
さて、勝海舟らはどのようにして、この難局を乗り越えたのでしょうか。
以下、読書メモと雑感です。