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☞【お金×日本史ならコレ!】『お金の流れで読む日本の歴史』(大村大次郎、2016年、KADOKAWA)

国税庁出身の大村先生。経済面だけでなく、いろいろな面から通史をさらってくれて、わかりやすくて、面白かった。高橋是清のセリフはしびれた。以下、読書メモと雑感。

§1.古代から日本は「技術立国」だった!

★記録が少ないために古代日本は文明が遅れていたような印象を持っている人も多いかも知れないが、4世紀にはすでに東南アジアにおいて相当な勢力を持っており、「侵攻」に近いことを行っていた。

★縄文人は「天然アスファルト」を使いこなしており、石のやじりに接着剤として使用されていた形跡がある(!)。釣り針の材料としても使われていた。

★「大化の改新」は経済力をつけた蘇我氏の財閥解体の意味も含む。
①すべての土地を天皇の領地とする
②田畑を民に貸し与え、民は租庸調を払う
③重要な役職の世襲制廃止
④戸籍整備
とかなり思い切った改革を行っている。

★大仏建立の財源として743年「墾田永年私財法」が考え出された。これにより豪族の力が増してしまった。また災害などに備えて備蓄していた「不動穀」を転売したことで財政大系も崩壊した。ただ、当時は神仏の力に頼るしかなかったので、致し方ないか。

★実は平安社会はちっとも平安ではなく、内乱に明け暮れていた。最大のものは中央vs東北の「38年戦争」。東北人は各地に強制移住させられ、「俘囚」と呼ばれ恐れられた。これに対して自衛のために武装するものも増えた。武装したものは、運送業を担うものもあれば、襲う方にまわることもあった。これらの武装団は「武家」に発展し、関東以東に多かった。平将門の乱も関東であり、「鎌倉武士団」は鎌倉幕府のベースである。

★菅原道真は貴族たちが地方の豪族と手を組んで私腹を肥やすシステムに手を入れようとして追い落としにかかられた。京都の有力貴族は一方では国司となって私腹を肥やし、一方では富豪農民と結託して不正な収入を得ていた。こうして朝廷の財政は細くなっていった。

★奈良時代から平安時代にかけて12種類の通貨が発行されたが、ことごとく失敗。958年を最後に鋳造を辞める。その後、米、布経済に逆戻りし、それは平安末期の宋銭が大量に流れ込むまで続くのである。

♨租庸調とは「収穫高の3%」、「成人男子の年60日間の労役(支払いで免除も)」、「各地の特産物など」のことを言う。

♨神仏に頼るのではなく、リアリズムに徹することができるかが重要であるということを歴史は教えてくれる。

§2.武家の台頭ーこれは社会経済の大変革だ

★奈良時代には大伴家持が征夷大将軍であったように高級官僚に武官・文官の区別はなかった。しかし、平安時代末期に「武」を専門とする公家・貴族が登場。平家であり、源氏である。社会の混乱により発言権を増していくことになる。

★地方から生まれた武家というのは中央に戻らなかった国司、実際に徴税を行っていた郡司の中から力をつけたもの、京都の貴族にかわって荘園の管理を行っていた地方の豪族など。中央の軍事貴族、地方の武家が結託することで鎌倉幕府が成立した。

越前敦賀は博多に次ぐ港であった。ここの国司をして貿易で利益を得ていたのが平忠盛、すなわち清盛の父である。権力を得た清盛はさらに神戸にも港を作る。神戸が国際港として日本の流通の拠点となっているのは清盛に起源があるとも言える。

★源頼朝を支持していた武家は平家のそれとはまったく異なる。頼朝は武家社会を作るべく、新しい体制を作ろうとした。しかし、義経は朝廷から勝手に官位をもらう、ということをしてしまったために追討された、とも考えられるのだ。

鎌倉幕府は関東を中心とした十数か国を支配していたに過ぎず、日本全体は各地域の豪族が統治していた。(※「国境」の概念とは「徴税」が及ぶ範囲のことである。)そのため、元寇などがあるとそこから回復できずに崩壊へつながってしまう。もっとも、鎌倉幕府崩壊と言うのは北条氏が滅びただけであって、武家の力は衰えておらず、北条家の後継者争いに足利家が勝った、という見方もできる。後醍醐天皇の政策はあまりにも時代に逆行。

★南北朝時代は後醍醐天皇の死去と共に終焉。実質的には10年にも満たないが、室町幕府の財政に影響を与え、戦国時代到来の遠因ともなる。というのは室町時代、もめごとが起きるとすぐに反対勢力が南朝に加担、室町幕府は直轄領を削って武家を引き寄せる、というようなことをやっていたからである。室町幕府の財源は「酒屋土倉役」(※土倉は金貸し)からの収入であった。しかし、室町時代にはたびたび土一揆が起こり、「徳政令」で借金がチャラ⇒土倉が大打撃⇒幕府も大打撃ということがあった。

★足利義満は冊封を受け、日明貿易を行う。しかし、義政の頃には財政も悪化しており、守護大名が勘合を買う、なんていう状態になっていた。守護大名の方が幕府よりお金をもっていたのである。

§3.信長の関税政策、ザビエルの思惑、信玄の経済的ハンデ

★南蛮貿易は思っている以上に大きな規模で行われていた。信長は重要な港を抑えることで貿易の利ざやを稼ぎ、「兵農分離」「鉄砲の大量使用」を可能とした。祖父の代から支配する「津島」は織田家にとって重要な拠点である。将軍から畿内6か国の管領職を蹴り、「堺」「大津」「草津」を得ることでさらに力をつけた。また、これらの港を抑えることで東に鉄砲の原料は届かなくなり武田家も上杉家も追い詰められていった。

※伊勢長島の戦でさらに東国は不利に。という話は【コチラ】がわかりやすかった。 

室町時代から戦国時代前半にかけて日本の多くの資産は寺社が所有していた。彼らは悪徳金融業者でもあった。中でも延暦寺が最大であり、武装した僧兵により取り立てがあった。これにメスを入れたのが信長である。

♨日本の宗教戦争を終わらせたのは織田信長。

★1569年、近畿地区において「金銀通貨使用令」を出す。これにより日本に初めて体系的な通貨制度ができたとも言える。

§4.「江戸時代が260年続いた」本当の理由とは?

★信長と違い、秀吉・家康がキリスト教を禁止したのは「先進性がなかったから」ではない。彼らは西洋諸国の動きの危険性に気づいていたからであろう。幸いなことに当時、戦国時代で戦闘力が高かったので他の東南アジア諸国のように蹂躙されずに済んだ。また、当時、ポルトガルは長崎で日本人奴隷を大量に買い、世界各地に輸出していた。1582年に天正使節団がローマで見たものは多くの日本人奴隷であった。このようにあまり「品のいい」貿易相手ではなかったのである。また、金銀銅の流出も問題。

♨時々、日本人的な顔立ちをした欧州人であったりを見かけることがあるが、彼らは末裔なのかと思ってしまう。

★徳川幕府は定期的に武士への救済処置を行っている。享保、寛政、天保とそれぞれ大改革があるが、いずれも「武士の借財を帳消しにした」という共通点がある。

廃藩置県がスムーズに行われた原因の1つとして「贋金」問題が挙げられる。討幕に使われたお金は実は贋金であり、諸外国からクレームを受け、引き換えに応じることになったが、これにより諸藩はほとんど赤字であり、破たん寸前。大名家にしても廃藩置県により借金から解放され、華族となったのだからこっちの方が良い。

§5.明治維新を成功に導いた「お金の強い力」

★黒船来航に際し、下手に朝廷に許可を求めたことが幕府の寿命を縮めることとなった。参勤交代廃止は諸藩の軍備増強につながり、「開国」で幕府だけが握っていた貿易の旨味が諸藩にももたらされた。

★大政奉還の経済効果は抜群であった。内乱の終息が早かったことが、日本が欧米列強につけこまれなかった最大の要因であると思われる。また、地租改正も効果抜群であった。

★開国当時から輸出大国であった。というのは、江戸時代からすでに生糸大国であったのである。さらに1859年、日本の開国当時、ヨーロッパの蚕が病気になっており、1868年は絶滅の危機。どんぴしゃりのタイミングでの開国となった。また、アメリカという巨大市場が出たのも大きく、絹製品の原料として生糸の需要が高まった

★その後、農産物より工業品を売った方が儲かることに気づき、次第に軽工業品、綿製品にシフト。渋沢栄一の作った大阪紡績は思い切った大規模化で成功をおさめた。

§6.日清・日露戦争、「戦費」はどう賄ったのか

★明治時代は日清・日露と2つの大きな戦争があったが、軍事費は諸外国に比べてそれほど高いというわけではなかった。少ない費用で強い軍を作ることが出来たのは汚職の少なさが挙げられる。トップどころが私利私欲を追究しなかったところが明治日本の特徴でもある。

★当時、軍事費のほとんどを賄ったのは酒税。日清戦争は増税もせず、外債も発行せずに戦い抜くことが出来た。国内の軍事公債の発行によるところが大きく、国民もこれを買うだけの経済力があった。

★日清戦争から日露戦争までは軍事費は50%程度とずば抜けて高い。日露戦争は国家予算8年分の費用がかかったが、4分の3は借金。ここで公債を外国にセールスしたのが高橋是清であり、彼が井上馨に言った言葉がこれ。

「政府の外債談が起れば、常に内外にいわゆるブローカーが現れて、コンミッションを自分の手に収めんと、様々のことを政府に申し立ててくる。その場合、いささかにても政府筋がこれに迷い、少しでも彼らに耳を傾けるようなことがあっては、出先の者の仕事に支障となり、結局政府に迷惑がかかり、損失を受けることもなるのであるから、いかなる者がいかなる申し立てをしても政府はこれを一切取り上げず、委任したる全権者に絶対の信用を置かれたい。もし政府においてこの決心が出来なければ、私は到底この大任を引き受けることはできません。」

これにより政府は覚書を作成。

★ようやくロスチャイルド銀行重役であるジェイコブ・シフに辿り着く。さまざまな努力をしたのにも関わらず、帝政ロシアがユダヤ人迫害をやめなかったのが原因。 →(このあたりのことは【この本にも】。)

★初戦の鴨緑江の渡河作戦に成功した後は、日本の公債が人気となり当初の予定より公債を集めることができた。

§7.太平洋「経済」戦争!当事者たちの懐事情は?

★明治維新から第2次世界大戦までの70年間で日本の実質GNPは6倍に。しかし、欧米諸国とは経済摩擦もあった。たとえば造船業。日清戦争以降、造船に力が入れられ、日露戦争時はイギリス製であったものの、1910年頃には輸出国に転じた。第1次世界大戦で欧州の工業生産が落ち込むと、さらに輸出量を激増させた。特にイギリスとの経済対立は深刻であった。

★世界恐慌以前に、日本は第1次世界大戦からの欧州の復興、関東大震災などの不況を経ており、輸出に強い製品を作る下地ができていた。世界恐慌により1929年~31年の間で輸出が半減するも、品質向上に励むことで他地域に比べ回復が早かった。また、1929年から33年の間に円の値が半分になったが、この円安を背景にインド、東南アジア、オーストラリアなどの欧米植民地に輸出攻勢をかけた。

日本は繊維工業に陰りが見え、綿製品にシフトした。これはイギリスとかち合うが、1933年にはついに輸出量でイギリスを追い抜いた。イギリスにとって特に痛かったのはインド市場を奪われたことである。あわてて輸入規制を行い、ブロック経済を敷く。その後もいろいろあったものの、結局インド市場から日本が締め出され、満州に活路を見出す。

★満州ではアメリカとバッティング。日露戦争当時からアメリカは満州を狙っていた。満州国は南満鉄の利権争いが発端であり、張作霖が「東三省交通委員会」という鉄道会社を作り(1924年)、南満鉄に平行して路線を作り出したことで(+欧米の借款)1928年の張作霖爆破事件コチラも:昭和史講義】、1931年の満州事変とつながる。

(※張作霖爆破事件はロシア陰謀説があったが、やはり寝返りそうになった張作霖を関東軍が爆破した、というのが定説。欧米ー蒋介石、ソ連ー毛沢東、日本ー張作霖)

★満州事変、国連脱退は国民に支持された。当時の日本はまだ大半が農村社会であり、貧しい時には子供を売りに出さないといけないような状況であった。財閥が優遇される中、515事件、226事件も農村の荒廃を動機の1つにしている。戦争を歓迎する裏にはこうした貧困からの脱出という期待があった。

日米は元々お得意様同士。満州の権益よりも日本との関係を重視したかったのであるが、1938年(昭和13年)の「東亜新秩序」宣言は許せなかった。これ以降は敵視

♨この認識は重要。日米はなんやかんや言っても相補的なんだと思う。もっとも、それはすべてのアメリカ人、すべての日本人に当てはまるものではないが。アメリカ文化を嫌いな日本人はあまり見ない。→【アメリカ人の国民性についてはコチラも

★1941年(昭和16年)南インドシナ進駐→在米資産凍結。これは日本が国際経済から締め出しをくらったもの。ドルが使えなくなったのである。→日米開戦を決意。公債は日銀が受けることで賄ったが、これは本来やってはいけないこと。しかし、物価統制令でインフレにならずに済んだ。これはまた奇跡的である。日本は開戦早々に東南アジアにおいてイギリス艦隊をドイツがもっと早くイギリスを降伏させるとふんでいたが、これがそもそもの間違いであった。

§8.高度成長とバブルの「収支決算」をしよう

★「戦後復興はGHQのおかげ」という誤解がある。しかし、GHQは日本をすぐに復興しようとは思っておらず、二度と戦争をさせないようにさまざまな制限を加えたものの、1946年からの冷戦で日本が共産主義化してはいけないと思うようになり、徐々に貿易制限などが緩和された。(※GSとG2の話は【コチラが詳しい】。)

★1960年には池田勇人が「所得倍増計画」を発表。実現できないと笑われていたが、「国民の収入が増えれば、経済は良くなる」というシンプルだがなかなか行き着きにくいテーマに取り組み、達成できた。経済学者の下村治がブレーン。(※小泉政権にしろ安倍政権にしろ株価至上主義である点が異なる。株化は上がっても、一般の国民生活は良くならない。)

★戦後の日本は機械の輸出で世界の中心に躍り出たが、これにはユダヤ商人たちの存在も大きい。ソニーや松下のアメリカでの輸入代理業者はベンジャミン・フィショフという杉原ビザで救われたユダヤ難民の1人であった。三菱、日立、古河電工なども1940年代に日本に難民としてたどりついたアイゼンバーグと言うユダヤ人によりアメリカに売られた。日本製ミシンなどもユダヤ人が携わることで好調な売れ行き。

日本の自動車業界が「急成長した」本当の理由としては、軍の持っていた技術や人材を活用したからである。フォード社は1925年、GMは1927年に上陸して、1930年~1935年の間に日本の自動車メーカーの普通乗用車の生産台数はゼロにまで落ち込んだが、1936年に「自動車製造事業法」で国内の自動車会社を保護することでフォードもGMも撤退。自動車製造事業法で許可を受けたトヨタ、日産、いすずは戦時中の軍用車両をほぼ独占。様々な特典もあり、戦時中に大きく飛躍。中島飛行機の資源と技術も戦後は富士重工に受け継がれる。ソニーにしてもカメラにしても軍の遺産となったものは多い。

★1955年に通産省が「国民車構想」を打ち出し、当時100万円程度であった自動車を25万円を目標にし、4人乗り、100キロまで出るという高レベルに設定した。コロナやブルーバードもそれを念頭に作られたが、スバル360が最もそれにふさわしい。

★新幹線が開通したのが戦後まだ20年の1964年。東京オリンピックが行われる直前である。なぜ戦後20年で開通できたのかというと、戦前から計画されていたからである。

★日本は原料を輸入し、製品加工して輸出することが主産業であるが、この輸出入に関して、日本経済はバブル崩壊の影響を全く受けていない。近年の貿易赤字とは大企業が海外に子会社を多く作って、それが貿易外収支として扱われることが大きな要因である。貿易外収支を含めた日本の国際収支は黒字であり、企業も内部留保金は多くある。

★日本が富裕層優遇政策を取りだしたころから消費は低迷し、デフレ不況となった。「特定の者が潤う国」は滅びる。日本が蓄えてきた経済力、技術力などをもって、政治家、企業、役人、国民が本気で取り組めば、誰でも普通に働けば結婚でき、子供を育てられる国にすることが可能になるはずであるし、それをしないと未来はない。

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