こんにちは。
今回ご紹介しますのは、鈴木荘一先生の「明治維新の正体」(2017年)の読書メモ・後編です。
【前編はコチラ】
§5.慶喜が条約勅許を得る
1863年:薩英戦争
1864年:新たにイギリス公使となったパークス主導で四国艦隊による下関砲撃
この講和条約に臨んだ高杉晋作は、賠償金を幕府に転嫁する。
第1次長州征伐も行われたが、西郷隆盛は勝手に講和条約を結び、徳川慶勝はそれに追従するだけで、「何も始まらないまま終わる」。
のち、萩藩では高杉晋作による「功山寺決起」で攘夷派が再び権力を握り、幕府も第2次長州征伐を計画するが、パークスは4か国の公使とともに、幕府に勅許を得ることなど厳しく要求。
老中阿部正外と慶喜の激論を経て、慶喜が勅許を得ることでようやく解決した。
【年表】(注:新暦)
1862年6月 | ロンドン覚書 |
1862年7月 | 西周、榎本武揚ら欧州へ留学。 |
1862年9月 | 生麦事件 |
1863年3月 | イギリス、幕府に「謝罪と賠償金10万ポンド」、薩摩藩に「犯人逮捕および死刑と2万5000ポンドの賠償金」を要求。この時、幕府は三条実美からの攘夷の勅命に対し具体的方策を述べるために上洛するところというタイミングの悪さ。老中格小笠原長行、生麦事件は事故として賠償金を払うとの決断で戦争回避。 |
1863年6月 | 萩藩、外国船砲撃。翌月、報復を受ける。 (ここでは書かれていないが、外国船砲撃の2日後に長州ファイブがイギリスに密航している。) |
1863年8月 | 薩摩藩は下手人処刑に応じず、ついに薩英戦争勃発。緒戦は薩摩が優勢であったが、アームストロング砲投入で形勢逆転。鹿児島市街が焼かれた。薩摩側は戦死者1名、流れ弾で4名死亡。英側は死者13名、負傷者50名。賠償金を幕府から借りて払うことに。ちなみにこの戦争に際して、イギリス商人は薩摩へ武器を売ろうとしており、イギリス海軍から苦情を受ける。 |
1863年9月 | 七卿落ち。長州排除。 |
1864年2月 | オールコックが2年ぶりに日本へ。長州藩の変貌に驚く。 |
1864年4月 | 天狗党の乱 フランス公使にロッシュが就任。イギリス追随から一線を画す。 |
1864年7月 | 池田屋事件。蛤御門の変(禁門の変)。 |
1864年8月 | オールコック主導のもと四国艦隊が下関へ出発。この時、長州藩は蛤御門の変で破れ、御所に発砲したことから朝敵となっていた。さらに長州藩追討令が出されており、存亡の危機に立たされていた。 |
1864年9月 | 四国連合艦隊砲撃開始。萩藩は降伏するも、芸州、因州ではナショナリズムが生じる。賠償金3万ドルという苛酷な金額が要求される(強力軍艦7隻分)が、高杉晋作はこれを幕府に転嫁。 |
1864年11月 | 萩藩では保守門閥派の椋梨藤太が実権を握る。奇兵隊は解散。高杉晋作は身の危険を感じて博多へ潜伏。 西郷隆盛「長州藩が二派に分かれていることは天の賜物と申すべきである。対立しているものを、ともに1つの死地へ追いやることは、誠に無策というべく、実に拙い次第である。」 |
1864年12月 | 第1次長州征伐。 しかし、総攻撃の前に西郷隆盛は勝手に長州藩一門吉川経幹との間で講和条件をまとめ上げる。①蛤御門の変の責任者である三家老切腹、②三条実美らの他藩移転、③山口城破却である。 |
1865年1月 | 広島に到着した総督徳川慶勝は西郷の処置を追認し、解散。第1次長州征伐は「始まることなく終わった」苛酷な賠償金を肩代わりさせられたうえに、何もしないで帰る徳川慶勝に批判が集中。 (※ここが歴史の分岐点では?) |
1865年2月 | 功山寺で決起した高杉晋作は徐々に大集団を形成し、保守門閥派との戦に勝利。椋梨藤太斬首。大村益次郎のもと兵制改革が行われる。 フランス公使ロッシュの支援で横須賀製鉄所が建設。 |
1865年6月 | 第2次長州征伐が決定。将軍家茂も大坂へ。 この月、駐日イギリス公使がオールコックからパークスへ交代。対日戦略も恫喝に。パークスは天津条約の元となった人物である。 |
1865年10月 | パークスはじめ4か国の公使は兵庫沖へ移動し、「勅許なしでは下関戦争での賠償支払い延期を認めない」方針などを第2次長州征伐準備中の幕府に突きつける。(このため、第2次長州征伐は遅れ、その間に長州は軍備を整えた) 長州は賠償金を幕府に転嫁したうえに、再軍備を整えた。イギリスと組んでいるようにしか見えない。 会議では勅許なしでの兵庫開港やむなしとする老中阿部正外と勅許を得るべしとする一橋慶喜の間で激論。 ちなみにこの月、第2次パーマストン内閣退陣。 |
1865年11月 | なんとか回答延期をとりつけ、朝議の場を設けた慶喜は自分の身を賭してでもとの覚悟を示し、孝明天皇を納得させ、勅許を出させる。これにより異人斬り、外国公使館襲撃、外国船砲撃などはピタリとやむ。兵庫開港は許可されなかったが、パークスらは一応満足。井伊直弼や堀田正睦が得られなかった勅許はようやく実現した。この通商条約は明治の改正を経て1939年にアメリカが破棄するまで続けられる。 |
※京の着倒れ…通商交易開始によって軍艦等を輸入、生糸は輸出に回される。その結果、国内では品薄になり物価上昇。これにより絹をまとう公家であったり、花街の人々がダメージを受けた。花街の人が、攘夷論者を匿うと、見つけ出すのはなかなか困難。
※生麦事件(1862.9)…島津久光は「一橋慶喜と松平春嶽を要職につけるよう」幕府に意見した。しかし、その帰り道、生麦村にてイギリス人が大名行列にさしかかり斬られる事件が起きた。この地域は外国人が通行可能であるが、大名行列には斬り捨てごめんの特権があるため、ダブルスタンダードの地域となっていた。鉄砲の存在があるため、護衛は駕籠に近づくものを攻撃せざるを得ない。
※イギリス公使オールコックと代理公使ニール…生麦事件当時、オールコックはロンドン覚書のために帰国中。ニールが事件処理に対応した。オールコックは懐柔外交の宥和政策で臨んでいるため、イギリス居留民の不評に屈することなく訓令を仰ぐ。
※小笠原長行…かつて阿部正弘に抜擢され、今は隠居中の水野忠徳に意見を求める。ここで、「朝廷の命令に従って攘夷は行う。しかし、生麦事件は次元の異なる偶発事故であるため、事故として賠償金を払うべき」と熱弁。小笠原長行の独断専行という形で実行し、戦争を回避した。
※薩摩藩…薩英戦争で開国に転じた、と誤って教えられている教科書もあるが、薩摩藩は一貫して開国派である。
※パークス…13歳で清国へ渡り、20年以上清国に滞在。広東領事としてアロー号事件に火をつけて戦争を起こし、天津条約を結んだ人物。上海領事などを歴任し、駐日公使となる。下関戦争での賠償金を1866年までに支払、ロンドン覚書で決定した兵庫開港、大坂開市の繰り上げおよび勅許を得ること、関税引き下げなどを要求。