~只今、全面改訂中~

§8.大政奉還の思想

慶喜は大政奉還を行い、今後は有力大名の一人として政治を運営していこうと考えていたが、偽の「倒幕の密勅」が薩長に下り、西郷隆盛ら薩長軍が京都へ。この頃、江戸では西郷の命を受けた相楽総三らがテロ行為を行う。朝廷は、「王政復古の大号令」をかけ、その後の「小御所会議」で慶喜の「辞官納地」を決定するが、慶喜は大坂へ行き、諸外国に幕府の正当性を認めさせ優位に。しかし、江戸では薩摩の相次ぐに挑発に対して「薩摩藩邸焼打ち事件」がおき、これに呼応して慶喜は鳥羽伏見の戦いへ。偽の「錦の御旗」の出現などもあり、慶喜はこれからというところで江戸へ撤退。この判断についてはいまだに論考が別れる。朝廷は慶喜追討令を出し、新政府軍は江戸へ向かう。ここまで散々力になった赤報隊は偽官軍として処刑

【年表】(注:新暦)

1867年11月 慶喜、大政奉還。同日、三条実愛邸において、薩摩藩大久保利通、長州藩広沢真臣に朝廷から「倒幕の密勅」が下る。実はニセモノ。黒幕は岩倉具視。
相楽総三ら、江戸でテロ活動。
1867年12月 大久保利通から倒幕の密勅を受けた西郷隆盛、狂気をもって薩摩から出兵。長州も奇兵隊、遊撃隊らが出兵。
1868年1月 大政奉還に対抗して、『王政復古の大号令』その夕刻、小御所会議。慶喜不在で行われ、「辞官納地」が伝えられる。慶喜、大坂に下り、陸海軍を集め、英仏米伊露蘭6か国の公使を引見して、徳川政権の正当性を諸外国に認めさせる。また、「辞官納地」は骨抜きに。
 江戸では薩摩藩の相次ぐ挑発に対して、ついに「薩摩藩邸焼打ち事件」を起こす。
1868年2月 慶喜、首謀者引き渡しがなければ薩摩を攻撃すると表明。幕府軍は大坂から進軍し、待ちうける薩長軍と鳥羽伏見の戦いが開始。しかし、ここで薩長陣営に錦の御旗が(これもニセモノ)。その後、津藩藤堂軍の寝返りなどがあったが、数字の上では幕府軍23000、薩長軍5000とまだ幕府軍優位であり、大坂城で態勢を立て直して反攻と思いきや、まさかの江戸撤退。主戦論者の小栗上野介、榎本武揚、大鳥圭介らの意見を退け恭順に踏み切る。朝廷は慶喜追討令を出す。
1868年3月 赤報隊は偽官軍として捕縛命令。相楽総三、処刑。
1868年4月 明治天皇「五箇条の御誓文」

西周…慶喜のブレーン。1862年7月に出発し、オランダのライデン大学で政治経済学を学び、帰国後の1866年4月より、幕府開成所教授となった。イギリス議会主義を手本とする政治体制を明記した憲法草案を作成。

大政奉還…大政奉還は突然降ってわいたような議論ではない。最初は対米交渉にあたっていた岩瀬忠震が為政の覚悟として語ったもので、この頃の幕府はまだ盤石であった。次に唱えたのが大久保一翁で、1862年、三条実美が攘夷勅命を伝えるにあたっての会議で、「外交交渉権のないものは征夷大将軍でないので返上すれば徳川家は無謀な攘夷を行わずに済むので安泰」と意見。ただ、慶喜はこの時点では大政奉還を行えば毛利幕府となって攘夷を起こして日本が外国に攻め込まれるだろうと推測したために反対。しかし、開国への道筋がつき、新しい政治体制が確立できれば大政奉還も可能と考えており、西周が帰国して家茂死亡時にはすでに考えていたであろう。

島津久光…中央政界への進出を熱望した島津久光であるが、彼が薩摩兵団をもって幕府に協力していれば、イギリス型議会政治の成立とともにイギリス貴族のように上院議員となることが出来た。しかし、パークスやグラバーと組んだ大久保利通の口車に乗って島津幕府を夢見てしまったことで、島津久光の私兵だった薩摩兵団は西郷隆盛にとられ、気が付けば廃藩置県で地方領主の座すら奪われた。

アーネスト・サトウ…桂小五郎に「日本のような後進国には暴力革命がふさわしい」とけしかける。これが大政奉還時の偽の密勅につながる。

西郷隆盛…大政奉還時に、「話し合いや和平路線を模索する有力大名がいればこれを刺殺し、江戸において放火・略奪・強盗・殺人などの非合法活動を行って幕府を挑発し、幕府と戦端を開いて、戦意の乏しい幕府を武力討伐して、『刀槍の時代』に代わる『大砲の時代』を確立しよう。」と話す。薩摩藩邸焼打ち事件により「これで開戦の口実ができた」と笑う。

小御所会議…(出席者)明治天皇並びに公卿衆、大名として徳川慶勝(尾張)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、島津忠義(薩摩)、浅野茂勲(安芸)、藩士として中根雪江(越前)、後藤象二郎(土佐)、大久保利通(薩摩)、辻将曹(安芸)ら。徳川慶喜の「辞官納地」を求める公家に対して山内容堂は、「なんであえて天下の乱開を開こうとするのか!」と「慶喜の出席」を求め、岩倉と激論。しかし、休憩の際、西郷が「短刀一本で片付くことではないか」と暗殺も示唆したことから反対派は沈黙。

相楽総三の赤報隊…鳥羽伏見開戦後、西郷の指示で赤報隊を結成。一番隊は江戸で乱暴狼藉を働いた相楽一派、二番隊は新撰組から分かれた御陵衛士、三番隊は近江水口藩士など近江出身者が中核。赤報隊には清水次郎長と対立した黒駒親分などもいた。新政府になれば「年貢半減」を領民に喧伝し、民衆の支持を得て、新政府軍の江戸進撃を助けた。しかし、翌月には「赤報隊は偽官軍」と言われ、捕縛命令。西郷隆盛の武力討伐に道筋がついた段階で殺された。