本書はほとんど知りたいことを書いてくれた。
一言で言うと、「武士道」は創られた伝統。
以下、読書メモ。
平安時代
★平安期以来、人々はまず一身の安穏を求めたのであり、武勇を求めたのではない。少なくとも安穏を実現・保障するための武勇だから許容したのであり、武勇のための武勇や、武勇の独り歩きを嫌った。
★平家の「貴族的」という評価は教科書にも掲載されてしまっているが、これは平家物語の影響。征夷大将軍という名目にこだわらなければ平家も幕府と考えて良いのではないか。六波羅幕府。
儀式や享楽に明け暮れ、無糸退廃のなかで未来を見失った都の貴族を、地方で農業経営や開発にいそしみながら、たくましく成長してきた新興勢力の武士が圧倒し、やがて貴族に代わって、鎌倉時代という新しい武家の世を開いた…この考えは明治以降の近代史学によって一段と精緻に仕上げられ…(この単線的な発展史観は今では過去のものであるが、一般にはなおこの理解が日本人の常識であり、あらゆる歴史小説、テレビドラマの基調。こうした見方は正しいかどうか、改めて検討する必要がある…
p11
鎌倉時代
★「鎌倉時代」という区分は歴史認識を誤らせる。
鎌倉幕府は京都の王朝を否定せず、西日本にはもとの国家体制やその基盤がなお余力をもって維持されていた。(♨これ重要。1221年こそ転換点という説の裏付けでもある。【承久の乱】も是非。)
室町時代
★南北朝の争いが長引いた理由として、北朝の内紛があげられるが、具体的には武士たちの中で王朝貴族や大寺社の荘園への侵略をためらわない急進的な在地領主と、王朝貴族らの利害に配慮する保守派の対立が続いたからである。(→細川頼之時代の半済令で落ち着きを見せる)
★義持の時代には公武融合政治が行われた。幕府は守護連合政権を意識。室町幕府当初の守護は問題があれば将軍が守護の首を挿げ替えることが可能であったが、この時代になると世襲がメイン。国内の国人を家臣化して任国との結びつきが強くなっており、よほどのことがない限り、幕府は守護をクビにはできなかった。
★その流れにあえて逆らったのが6代将軍義教。このため、守護職没収を恐れた赤松満祐により嘉吉の変(1441年)が起きる。この時期、京都は徳政一揆が頻発し、早くから独立的であった九州に加え、関東八か国も幕府の統制から独立して戦乱に入った(享徳の乱)。
★戦国時代のはじまりを
①応仁の乱(1467~1477)とする説と、
応仁の乱を誘発したと言う点で
②享徳の乱(1454~1483)とする説、
③10代将軍足利義材が将軍を廃された明応の政変(1493年)
とする説がある。
いずれにしても、中央政権は機能を失い、地方では守護領国制となり、分国支配を強化した守護あるいは守護代が戦国大名へと成長した。
★戦国時代の武士たちは中小の独立自営業者であり、手柄のために参戦し、無理な命令には背いて逃げ出した。従者はそう簡単に死地に投入できない。よって、多数の死者が出るような武力衝突はたまにしか起きない。
戦国~江戸時代
★太閤検地は画期的。1つの耕地に複数の権利があったものも統一。
刀狩も画期。自力救済のために村々には大量の武器があり、村々の争いも絶えなかったが、そういった農民のケンカをやめさせた。
もっともイノシシ退治に武器は必要であり、完全に武装解除されたわけではない。喧嘩停止令のみ徳川政権は受け継ぐ。
★戦争はドラマのようにかっこよくはない。
今日の競走馬でも全力疾走ができるのは200~300m。口取も必要。当時は去勢の概念もなく、手なづけられず大変だった。また、戦場では馬の腹が狙われることもしばしば。ちなみに一ノ谷の合戦の時の義経の進軍速度は時速4キロ。馬が草を食べながらであったから。
♨映像化は事実を誤認する危険も伴う。
★弓と太刀では圧倒的に弓の勝ち。(弓取りはいるが、刀取りはいない。)
★加藤清正にしろ、初陣なんてほとんどパニック。徳川吉宗の頃には馬に乗れない武士が増えていた。
★「武士に二言なし」「武士の三忘(妻、子、自身の明日)」「武士の命は義によりて軽し」などなど、武士にまつわることわざは歌舞伎、浄瑠璃、文楽作品からきている江戸時代の庶民がつくった「かくあるべし」武士像でもある。
★(江戸時代に比べて)総体としてはるかに個性的で生彩に富んでいるのが中世の武士。「弓馬に携わる者が敵のために虜になるのは必ずしも恥辱ではない(吾妻鏡)」 南北朝時代には「偽装降参」も。 (【戦争の日本中世史:コチラも】)
★「武士は渡りもの」。藤堂高虎なぞは一生に7回も主人を代えて、最後は外様ながら家康・秀忠の側近に。ただ、秩序が確立するにつれてこういう武士は失われていく。
↓極めつけはコレ。
★『葉隠』を語った山本常朝の祖父は「大声でわめけ、嘘を言え、博打をうて」と教えている。常朝の父は「一町歩く間に7度嘘を言うのが男だ」と教えている。
★儒教的なものは「士道」。近世の儒家、山鹿素行が代表。
「士道」と「武士道」は異なる。(コレ、大事。)
諫言に耳を貸さないダメ主君からは去れという「士道」に対し、「武士道」では主君の悪が外部にもれないようにし、主君の悪を己がかぶりながら諫言を続けるべき、という。(「死」に対しても似ているようでちょっと違う。)
★中国や朝鮮は儒教を重んじたが、日本は儒教の割合は高くない。武を忌避しなかったため武家社会が到来した。もっとも、江戸時代に武家が文官になったことで深刻な修正が迫られた。儒教は武家に治者としての自覚をうながす教養体系として機能し始めた。
明治以降
★近代における武士像には天皇への絶対恭順などの道徳観が色濃く投影。
★明治政府は旧士族主体でありながら、行ったことは武士の社会的特権をはく奪し、経済的特権の家禄を撤廃。木戸孝允ですらその流れについていけず孤立。
★士族の名誉意識が保たれた職業として官吏、警官、軍人、教員。威信も報酬も保たれる。
官吏にとって主君は天皇。
士族と学問の相性は良く、その子弟の世代でエリートが再生産。
★明治11年、竹橋事件ののち、陸軍省の外局だった参謀局が廃止され独立した参謀本部が設置し、参謀本部長の山縣有朋が天皇直属となり陸軍卿と並び立った。
参謀局は軍人勅諭の原則に従って天皇を補佐する機関へ発展。
陸軍大学校の設置が決定。
統帥権は強い自主性を持つ一大勢力(軍閥)となり、政治が軍を統制することを排除。 (♨竹橋事件、って結構重要だったんだね…)
★『日本戦史』(1924年)は陸軍参謀本部次長の川上操六(インテリジェンスの父、日清戦争の作戦たてる)と横井忠直らによる編纂。
ただ江戸時代の娯楽本である軍記物などを史料とせざるを得なかったため架空の戦記となってしまい、桶狭間の戦や長篠の戦、関ヶ原での小早川の裏切りなどは史実と異なる内容となって誤って伝えられてきてしまった。
関ヶ原の布陣にしても創作の可能性が高い。 (!)【関ヶ原の合戦はなかった?:こちらも】
★さらに深刻なのは近代の軍人による架空戦史の誕生が近代の指導的軍人の思考と志向を縛り、史実とかけ離れた戦訓をもとに現実の戦争を構想させ実際に実行することに。(!!)
奇襲を多用したが、その奇襲自体の元となったものが嘘なので情報収集に優れた米軍によって惨憺たる結果に。
川上操六は1899年に亡くなるが、後を継いだ大島健一は批判的研究を否定し、日本人の尚武の気風を否定する話を過小に扱う。いよいよ架空の歴史話に。
★ひとたび忘れられた武士道が息を吹き返したのは新渡戸稲造による。1900年にアメリカで出版。
しかし、これ(「新渡戸稲造式武士道」)は士道とも武士道とも別物である。
そもそも葉隠はまだ世に出ていない。新渡戸の武士道は脳裏にある武士像をふくらませた創作で、戦闘から離れた一般道徳となっている。
★そもそも新渡戸はクエーカー教徒でありキリスト教がベースにあり、「武士道の皮をかぶったキリスト教」である。(媚態でもある。)
★新渡戸とはさらに別に、「天皇に忠節を尽くす」ことを目的としたものが当時の主流でもあり。君主と家来の関係が、天皇と国民の関係に。武士道の捨身や死の覚悟の狭長も国家や天皇のための滅私奉公、戦死の美化として利用されていった。
★特に問題としたいのは日露戦争後の軍事思想の傾向。辛勝の原因を火力などに求め、これまで以上に火力・機動力の充実、兵器の改善、機械化、高度化、兵站の整備、連携、合理化にとりかからないといけなかったのだが、精神に求めてしまった。(ロシア軍の方が勇敢であったからでもある。) 【日露戦争の真実:コチラも】
現在
★現在の政治状況の中で、武士道が国民道徳や日本人の精神的な背骨であるかのように言う声があるが、筆者は反対である。武士道は創られた伝統であり、普遍性を持たない思想。
★曲亭馬琴「やまとだましいには命を惜しまない精神という意味がこめられているが、それは浅慮で無学のなせるもの」
★ある民族だけが精神力に優れているということはない。日本人に大和魂があるかも知れないが、アメリカ人にもヤンキー魂、イギリス人にはジョン・ブル魂がある。日本の攻撃は淡白で、守りに弱かった。
★前近代の日本の歴史は武士の降伏を決して否定していない。勇者もそうでないものもいてはじめて人間社会である。日本は軍事面での勇敢さを不要とする平和と安全保障の国際関係を構築する方向で勇敢に戦うべきだ。
★人文科学は役に立たないという意見もあるので、あえて武士の歴史を学ぶ必要性を説きたい。
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