5代将軍:綱吉…ヤリスギ将軍
1646 | 誕生。 |
1648 | 同母兄亀松、3歳で死亡。 |
1649 | 慶安のお触書 |
1651 | 家光死亡、家綱将軍に。由比正雪の乱。末期養子の禁緩和。 |
1661 | 兄・ 綱重、甲府に。綱吉、館林に。16歳。 |
1663 | 武家諸法度で殉死の禁止。 |
1664 | 結婚。19歳。 |
1665 | 大名の証人制廃止。 |
1671 | 伊達騒動。 |
1678 | 兄・綱重死亡。 |
1680 | 長兄・ 家綱死亡。宗家相続。将軍就任。大老酒井忠清罷免 (※綱吉の母が八百屋であったことなどを理由に綱吉就任に反対した勢力もいたが、堀田正俊の独断で家綱が綱吉を養子に迎える形式をとり将軍綱吉が誕生した)。 この時、35歳。ちなみに身長124cm。 |
1681 | 堀田正俊大老就任。(※極めて厳格。正論人間。) |
1682 | 柳沢保明相手の講義開始。以後、毎年の正月行事となる。 (※家光は子供時代に時代背景からちゃんと勉強できなかったことを悔やんでおり、息子にはちゃんと勉強させたいと思ったため、勉学はずっとやっていた。) |
1683 | 長男・徳松(5歳)死亡。 武家諸法度第1条が「文武弓馬の道」から「文武忠孝」となる。 |
1684 | 堀田正俊刺殺。 |
1685 | 生類への禁制始まる。40歳。 (嫡男に恵まれず母・桂昌院と親子で占いにはまった結果。) |
1687 | 生類憐みの令始まる。 以後、繰り返し発令。42歳。 (※結果的に嫡男は生まれず。) |
1688 | 柳沢保明(31歳)、側用人へ。(※先祖は甲州武田の家臣。) 能力主義を切り開いたとも言える。 |
1695 | 元禄小判に改鋳。 (※萩原重秀) |
1701 | 柳沢保明、松平姓を賜り、松平吉保となる。56歳。 |
1702 | 赤穂事件。 |
1703 | 江戸大火・大地震・全国的飢饉 |
1704 | 長女・鶴松死亡(28歳) |
1705 | 母・桂昌院死亡(79歳) |
1706 | 松平吉保(柳沢保明)、大老格に。 |
1707 | 宝永地震・津波・富士山噴火 (※東日本大震災に匹敵するとも。それまでは盛んに新田開発がされていたが、なんでもかんでも開発すれば良いものではない、という姿勢に変化。農民は農業書を読むために寺子屋に通い、読み書きの勉強をする。農業は知的な職業。) |
1709 | 死亡。64歳。 |
★「生類憐みの令」で犬公方とバカにされていた綱吉ではあるが、近年再評価。処刑された人数はそれほど多くなかったこと、「辻斬り御免!」の時代から、人間含めて生き物を大事にする時代へ進展させた、など。
★元禄小判の萩原重秀も再評価されている。家康の頃に潤沢だった金は、家光が使い込んだせいで、綱吉の頃には目減りしていた。
★「生類憐みの令」だけではなく、「赤穂事件(1702)」、「宝永大地震(1707)」も綱吉時代。
★綱吉の代で武家諸法度第1条が「文武弓馬の道」から「文武忠孝の道」になったことは頻出。
★息子、娘に先立たれ、晩年は大地震に見舞われたことなどを知ると、権力をふりかざして悪法を押しつけたイメージは、だいぶ変わるであろうか。
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