~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、米内光政と井上成美。

山本五十六とともに、「海軍三羽烏」とも言われますが、

三者三様、という見方が正解でしょうか。

以下、『昭和陸海軍の失敗』(2007年)を参考にさせて頂きました。

【まとめ】

★米内光政は対中強硬を指揮。しかし、アメリカの実力は正しく把握していた。

井上成美は、ヒトラーの本質を見抜いており、一貫して三国同盟に反対した。日米開戦にも当然反対。

★山本五十六は米英に対して「半年や1年なら暴れてみせましょう」と言うなど脇が甘い。

【試験に役立ちそうなポイント】

★米内光政:対中強硬。日中戦争拡大時の海相。ドイツとの三国同盟には「英米と戦争になったら勝てない」と反対。そのため陸軍と不仲になり、首相時、陸軍により総辞職に追い込まれた。米内の次の首相が近衛。

★井上成美:米内光政、山本五十六とともに三国同盟反対、英米開戦反対を主張。3人のうち、もっとも一貫性があったが、試験にはおそらく出ない。

【米内光政】

写真はwikipediaより

略年表

1880 岩手県盛岡藩士の家に出生。
1898 海軍兵学校入学(29期)。
1901 海軍兵学校を125人中68番の成績で卒業。(※1)
1905 日露戦争従軍。日本海海戦にも参戦。
1912 海大入学(12期)。
1914 海大卒業。
1915 ロシア駐在。
1920 ドイツ駐在。
1930 閑職の間にひたすら読書。
1936 連合艦隊司令長官。(※2)
1937 林内閣、近衛内閣、平沼内閣において海相。

第2次上海事変を拡大。(※3)
1938 トラウトマン交渉打ち切りを強く要望。近衛声明につながる。多田駿と対立。

11月には五相会議で海南島攻略の合意を得る。(※4)
1939 ドイツ、イタリアとの同盟に反対。(※5)
1940 予備役となり内閣総理大臣に。陸軍の横やりのため、半年で総辞職。(※6)
1941 予備役のまま太平洋戦争開戦。現役復帰案も出たがなかなか実現せず。(※7)
1944 現役復帰し小磯内閣で海相に。鈴木内閣でも留任。
1945 終戦へ尽力。戦後の東久邇宮内閣・幣原内閣でも海相となり海軍の幕引きを行う。
1948 肺炎により死去。68歳。高血圧、帯状疱疹も彼を弱めた。

(※1)「グズ政」と呼ばれていた。

(※2)わずか2ヶ月で司令長官を退職。これは海相に末次がならないように山本五十六が米内を推挙したためのようだ。

(※3)予算不足を主張する賀屋興宣蔵相を怒鳴りつけ事変拡大。中国の南方は海軍の縄張りという意識もあったか。中国側の挑発も一因。

(※4)総辞職をちらつかせて近衛声明に加担。海南島攻略は「海の満州事変」とも言われる。1939年2月に占領。南進には賛成。もたもたしていたら陸軍にとられるという懸念もあった?少なくとも「海軍は平和的」という考えは誤り

(※5)しかし、これは1年先延ばしになっただけである。米内自身は親ソ派で、ソ連と組むべきと考えていた。また、平沼内閣時代には五相会議で天皇に、「帝国海軍は独伊には勝てても英米に勝てる見込みはない。」とハッキリ言ったところ陸軍の怒りを買う。そのため、海軍は陸軍との開戦準備を整えたほど(!)。

(※6)それまでの経過もあって、陸軍との関係は最初から悪かった。陸軍では就任当日から米内おろしの計画が練られた。ただ畑陸相とは通じるものがあり、東京裁判においても畑俊六を庇う姿勢をみせた。

(※7)伏見宮の次の軍令部長になりかけていたが、伏見宮の「永野がいい」で吹っ飛んだ。