こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「なぜ太平洋戦争は1941年に起きたのか?」です。
僕自身、なぜ「1941年」だったのか?という視点は今までありませんでした。
しかし、日米は日露戦争の前後くらいからずっとライバル関係であったため、「それ以前にも起きる可能性があった」わけです。
それでもなぜ「1941年」だったのかと言いますと、端的に言えば、「第2次世界大戦に巻き込まれた」というのが本書の主張です。
以下、『太平洋戦争の新常識』(2019年、PHP新書より)第1章「日米両国は50年間、戦端を開かなかった」(中西輝政先生)を参考にさせて頂きました。
【年表】日米関係 1880年~1941年
1880頃 | 日米とも「アジア・太平洋の覇権」を目標に掲げる |
1893 | ハワイにいるアメリカ人が武力クーデターを起こし(起こさせ)、王政廃止。 ハワイの日本人居留民救出目標に東郷平八郎が軍艦「浪速」を率いてハワイへ。 |
1894 | 日清戦争。この勝利で台湾を日本が得る。 |
1898 | 米西戦争。アメリカはスペイン領フィリピン、グアムを植民地にする。 ※台湾とフィリピンは210キロくらいの距離で向かい合っている。 |
1904 | 日露戦争。日本勝利で日米が「潜在的ライバル」から「顕在的ライバルに」。 アジア進出を狙っていたアメリカにとって大きな障害となる。 ♨というより、日本の「勝ち過ぎ」をイギリスが抑えた、という文脈で語られることが多い。 |
1907 | アメリカで反日世論。カリフォルニアで日系移民排斥運動。 それでも戦争に至らなかったのは、 ①日本側の譲歩 ②日本が太平洋よりも満州に目を向けたこと ③日英同盟 が要因と思われる。 ♨倉山満先生によれば、戦争に至らなかったのは欧州勢はバルカン半島の問題で手一杯、アメリカは革命が頻発するメキシコに頭を悩まされて手一杯(メキシコ革命1910-1917)だったことを指摘。「学校では教えられない満州事変」。 当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、 ①桂・タフト協定(朝鮮が日本、フィリピンが米国と相互に認める)を利用して日本のフィリピン攻撃を未然に防ぐ ②アメリカ艦隊による示威行動 ③高平・ルート協定(1908:台湾を日本、フィリピンを米国の土地であることを相互に認める)により日本のフィリピンに対する野望を完全に放棄させる という構想を持っていた。 (日本軍はフィリピンまで手をのばすつもりでいたのだろうか?そうなると秀吉以来だな…。非常に興味あり) |
1914 | 第1次世界大戦。期せずして共に連合国の一員に。 衰退したイギリスの地位を狙って日米が軍拡。 |
1917 | シベリア出兵 |
1919 | ヴェルサイユ講和会議でドイツ領だった南洋群島が日本の委任統治領に。【コチラも】 (日米間でさらなる緊張。グアムを取り囲むように南洋群島を得た。) |
1921-2 | 日米英でワシントン会議、海軍軍縮条約。ここで日英同盟廃棄が決定。【コチラも】 イギリス高官 「日米と言う新興国同士が我々の後釜の座をめぐって、危険なゲームを始めた。これは必ず衝突になるだろう。」 |
1931 | 満州事変。翌年、満州国建国。【コチラも】 アメリカ国務長官スチムソンは対日経済制裁を主張するもフーバー大統領が止める。 |
1939 | 第2次世界大戦 |
1940 | ルーズベルト三選 |
1941 | 独ソ戦 →対日禁輸 →南進 →モスクワ攻防戦 →ハル・ノート →日米開戦 |
なぜ1941年まで戦争に至らなかったのか?
★日米が戦争に至らなかったのは、お互い「国内に弱点を抱えていた」からであろう。
アメリカ側は
・「孤立主義」の影響
・1910年代末からは経済が未曾有の活気で戦争など考える必要がなかったこと
・1930年代は大恐慌で経済が委縮して海外の問題どころではなかったこと
が挙げられる。
日本側は、
・内政が不安定で世界に視野を向ける余裕がなかったこと
・これにより対外的な国家意思を統一できなかったこと
により、戦争が避けられていたのであろう。
逆に言えば、「強いリーダーシップが可能となった時」に戦争が起こりやすくなる。(アメリカで言えば、ルーズヴェルト三選。)
もちろんリーダーシップは弱すぎてもダメ。(盧溝橋事件以降の日中戦争拡大)
♨これについては必ずしもそうとは言えないのではないだろうか…と思いつつも、深い…なぁと感心。
戦争に至った要因は?
★日中戦争でアメリカが中立義務を違反するほど蒋介石を援助したにも関わらず、戦争には至らなかった。
しかし、その後、戦争に至ったのは第2次世界大戦の影響がある。
ドイツの快進撃を見て、近衛文麿は「基本国策要綱」(1940年7月26日)で「世界はドイツ・イタリア、日本、ソ連、アメリカの4つの勢力圏」に変わったと述べている。
日本は英仏蘭がアジアに持っていた植民地をとって、「大東亜共栄圏」を作るチャンスが生まれたと考えた。
一方、アメリカ(ルーズヴェルト)はもしイギリスが陥落すれば、アメリカの安全が根底から覆されるので、第2次大戦に参加したくてしょうがなかった。(しかし、世論の8割は反対。)
♨本書では触れていなかったが、日本は大東亜共栄圏だけ考え、アメリカと戦わずにイギリス植民地だけ攻撃していればアメリカ世論は沸かなかったのではないか、という説も強い。
★1941年6月22日、独ソ開戦が起きた。この場面で日本がシベリアに軍を進めていたらソ連が一気に崩壊する可能性があった。ソ連の資源が日独に渡ったらますます不利。そこで対日禁輸に踏み切った。
♨もしこの時点で日本がシベリアに進出していたらどうなっていたのか?というシミュレーションは(もちろん平和を願ってはいるものの)非常に興味があるところではある。
★最近の暗号解読の結果、アメリカは日本の南進の情報をいち早くつかんでおり、「南進→対日禁輸」ではなく、「対日禁輸→南進」の順序であることが判明した。
★1941年11月20日頃、ドイツ軍がモスクワ郊外へ到達。いよいよ焦ったルーズヴェルトが「ハル・ノート」を出す。これは即時開戦を希望してのことであろう。(そして、まんまとのってしまったのだが。)
★日米間はライバルでありながらも長らく戦争を回避し続けたのだが、第2次大戦に巻き込まれる形で、戦争に至ったのだった。