~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「仁明天皇」時代(833-850年)です。

この時代には「承和の変」が起きたり、「最後の遣唐使」が派遣されたりしました。

また、「群盗問題」が表面化し、「自力救済」が到来した時代とも評されます。

ちなみに、六国史4つ目の『続日本後記』は仁明天皇時代のみなんですね。

第54代:仁明天皇期(833年~850年)

仁明天皇とは?

【仁明天皇】・・・810-850。

嵯峨天皇第2皇子。兄の早世と「承和の変」により天皇に。母・橘嘉智子は橘奈良麻呂の孫。

学問好きとして知られ、大伴善男とは学友。

ただ、学問好きによって国家財政が傾いた。

仁明天皇の母

橘嘉智子。

橘家最初で最後の皇太后で、「類なき麗人」として知られます。

娘は恒貞親王に嫁ぎましたが、母が「承和の変」で暗躍したことで母娘関係が悪化したという説もあります。

橘家のために「学館院」という大学別曹を建てました。

仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院・檀林寺を創建したのも彼女です。

♨檀林寺には町内会役員時代に何度か足を運ばせて頂きました。とても綺麗なところです。もっとも、平安時代に檀林寺のあった場所は現在の天龍寺でして、檀林寺が今の場所になったのは1964年からだそうです。

年表

833 淳和天皇(~833)、嵯峨天皇第2皇子・仁明天皇に譲位。

※皇太子には嵯峨天皇の意向で淳和天皇の息子・恒貞親王が選ばれる。ただ、政変に巻き込まれるのを恐れて淳和天皇も恒貞親王も断ろうとした。
838 最後の遣唐使派遣 (※1)

畿内で初めて「群盗」の記述
840淳和上皇死亡

群盗問題活発化(※4)
842 承和の変(※2)

嵯峨上皇が崩御により後ろ盾を失った恒貞親王は廃位させられる。藤原冬嗣の息子・藤原良房(※3)は伴健岑と橘逸勢を流罪し、道康親王を皇太子にする(⇒のちの文徳天皇)。
847 仁明天皇は故・橘奈良麻呂に官位を送り、橘家の名誉を回復させる

(※1)最後の遣唐使になるはずだった男:小野篁

838年、最後の遣唐使が派遣されました。

この派遣団の中で最も有名なのは天台宗山門派の祖、円仁

次に有名なのは小野篁でしょうか。

もっとも小野篁は実際には行っておりませんが。

と言いますのも、出発前、大使・藤原常嗣の船に故障が見つかったことで、副使・篁の船に常嗣が乗ることになりました。

しかし、篁はこれを「不服」として乗船拒否します。

これを聞いた嵯峨上皇が激怒して、隠岐島に流罪となりました。

百人一首で有名な

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟

はこの時の句です。

⇒【百人一首は鎮魂歌?百人一首についてはコチラも

篁の言い分もわかりますが、当時の人権の低さを考えますと随分、思い切った行動ですね。

ちなみに、 「子子子子子子子子子子子子」を「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と呼んだのも彼でして、篁の才能はピカイチであった。

(♨小学生の頃、「子猫、猫の子、この猫、子猫」って 習ったような気もしたが間違い?)

wikipediaより。参議篁として11番に掲載。840年に赦免。父は 『凌雲集』 を編纂した小野岑守。

主な遣唐使一覧

(※2)承和の変:平安時代最大の冤罪事件?

もう少し細かく言うと、

①嵯峨上皇死去

②橘逸勢、 伴健岑が皇太子(恒貞親王)の身の上を案じる

③阿保親王(平城天皇の息子)に相談する

④阿保親王は皇太后(仁明天皇母:橘嘉智子)に相談

⑤皇太后が藤原良房に相談

⑥藤原良房が仁明天皇に上告(♨なんて言ったことか…)

⑦仁明天皇が橘逸勢、 伴健岑らを逮捕。(嵯峨上皇死後2日目)。

⑧橘逸勢、伴健岑は冤罪主張するも、皇太子は責任をとって廃位。藤原愛発、藤原吉野らも追放され40人以上が処罰。

⑨藤原良房は大納言に昇進。皇太子には道康親王(のちの文徳天皇)が就任。

橘氏、伴氏といった名家の勢力が弱まり、藤原家の中でも良房が抜きん出た天皇家は横に伸びる系統から嵯峨ー仁明ー文徳ー清和天皇と直系型となった。

恒貞親王は最終的には出家し、嵯峨大覚寺の初代住職となった

(※3)藤原良房

【藤原良房】(804~872)

 

藤原冬嗣の次男。「承和の変」、「応天門の変」といった2つの政変に関与。

皇族以外ではじめて摂政となり(866年)、摂関政治の基礎を作る。

冬嗣が早逝したことで、割と苦労人。

814年10歳 嵯峨天皇皇女と結婚
826年22歳父・冬嗣死亡
833年28歳 妹の順子が皇后となる(仁明天皇の后)
842年38歳 承和の変。道康親王(順子の息子)を皇太子に。
850年46歳 道康親王即位、文徳天皇に。(→天皇の叔父に)
857年53歳太政大臣に
858年54歳 文徳天皇死亡、娘の明子と文徳天皇の子が即位。清和天皇9歳。実際の政治は良房が行う
866年62歳 応天門の変。伴氏、紀氏を朝廷から追い出し、藤原氏の絶対優位を確立。

※これに関しては藤原基経も賢かった。
『古代史から解く伴大納言絵巻の謎』(倉西裕子,2009) がめちゃくちゃ面白い。【紹介はコチラ

古代史から解く伴大納言絵巻の謎
新品価格
¥15,291から
(2019/10/17 06:45時点)


古代史から解く伴大納言絵巻の謎 [ 倉西裕子 ]
価格:2,640円
(2019/10/17 06:46時点)
感想(0件)


↑中古でも全然値が落ちない。
872年68歳病死

「清和の一歳の立太子も、九歳の即位も、外祖父良房の絶大な権力も、何もかもが前代未聞だった。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

wikipediaより。

(※4)群盗問題

「中世的な弱肉強食の自力救済社会は、仁明天皇の承和年間に、すでに京の至近の畿内社会に到来していた。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

仁明朝の承和年間(834年~848年)に「群盗」という弓騎の犯罪集団が表面化しました。

これにより治安は悪化します。

なぜ群盗が発生したのかという点につきましては、桃崎先生の著作を是非。

 ☞【一言一句が超重要。何回読んでも新しい。『武士の起源を解きあかす』(桃崎有一郎、2018年)】

仁明天皇の評判は?

仁明天皇は学問好きとしても知られますが、それがまずかったようです。

三善清行が醍醐天皇に提出した「意見十二か条(914年)」には歴代天皇の放漫財政への苦言が呈されていますが、

それによりますと、

1.飛鳥~奈良時代に無闇に仏教が流行し、(中略)特に、全国の国分寺・国分尼寺の造営で諸国の財を使いすぎ、天下の富の10分の5が消えた。

2.桓武天皇が巨大な宮都を二度も造って(中略)、残る富の5分の3が消えた。

3.仁明天皇が奢侈を好み、美麗に飾り付けた宮殿で、前代未聞の豪華さで行う宴会を繰り返し、残る富の2分の1が消えた

と書かれています。

実際に、 仁明は<礼>思想を正しく実践すれば良いのだと本気で信じていました。

そして、漢詩を詠む宴を頻繁に開き、その分だけ現実の政治が疎かになりました。

詠み手には身分に応じた禄が毎回与えられ、会の品を高めようと宮殿の装飾もグレードアップ。

…現実に即した行動を取らないといけないんですがね。

というわけで、「仁明天皇」の評価は低評価です。

「元から苦しい財政の中、仁明は湯水のように浪費して、“意識高い系の皇帝”を演じた。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」
SNSを一番やってはいけないタイプの人ですね~


「仁明は文章経国、つまり、“浪費を伴う作文”を統治だと信じた。その浪費が群盗の出現を招き、(中略)朝廷を破綻させた。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

もし、会社や組織の上司が徳や礼「だけ」を重んじるようであれば、仁明天皇を引き合いにして是正させて欲しいです。

次章は文徳天皇時代