~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、13代~15代将軍、「家定、家茂、慶喜」についてです。

1840年、家慶時代の三方領地替え幕命撤回を「幕末」とする方もいらっしゃいますが【コチラ】、

オーソドックスに考えると1853年からの家定時代からが「幕末」でしょうか。

ちなみにペリー来航時はギリギリ12代家慶の時代。

最初の来航時は家慶が死の淵であっちもこっちも大変でした。

銀魂でいうところの、「定々」「茂々」「喜々」アルな。

在任年数は家定5年、家茂は8年、慶喜は2年と短命政権でした。

しかし、実に濃密な15年間であったと思います。

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以下、堀口茉純の「TOKUGAWA 15」(草思社、2011年)を参考にさせて頂きました。

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13代:家定…暗愚(時々正論)将軍

1824 家慶の4男として誕生。兄弟で成人したのは彼だけ。生まれつき言語障害があったため、「癇癪公方」とも呼ばれる。料理好き
1827 世子決定。4歳。
1828 シーボルト事件
1833 天保の大飢饉
1837 大塩平八郎の乱、生田万の乱。

モリソン号事件

父・家慶、将軍へ。
1839 蛮社の獄

水野忠邦、老中首座へ。
1840 三方領地替え。(→幕命撤回)

アヘン戦争
1841 祖父・家斉死亡。水野忠邦『天保の改革』はじまる。

将軍継嗣として西の丸に移る。鷹司政煕の娘・任子と結婚。18歳。
1842 天保の薪水給与令
1843 人返しの法。
上知令。
日光社参(※赤字となった)。

水野忠邦失脚。土井利位が老中首座、阿部正弘(25歳)、老中へ。
1844 水戸藩・徳川斉昭に隠居命令。

水野忠邦、再び老中首座へ。土井利位罷免。

オランダ国王の開国勧告受理
1845 水野忠邦、体調不良で辞職。阿部正弘、老中首座へ
1846 米使ビットル浦賀に来航、通商要求。
1848 任子死亡。25歳。
1849 一条家より秀子と再婚
1850 秀子死亡。
1852 西の丸炎上。阿部正弘が再建工事総括。
1853 ペリー浦賀来航、父・家慶死亡、将軍就任(30歳)

阿部正弘、過激な攘夷思想で謹慎させられていた徳川斉昭を海防参与に。

露使プチャーチン長崎来航
1854 ペリー再来日、日米和親条約締結(その後、各国と和親条約締結)
1856 島津斉彬養女⇒近衛家養女、敬子(篤姫)と再々婚。33歳。

(※一橋慶喜を養子にもらうことも画策されたが、思いのほか夫婦仲が良好で、養子の話が出にくく、出たとしても正論で押し切られた。)
1857 阿部正弘(一橋派)39歳で病死

一橋派と南紀派の争い激化。
1858井伊直弼(44歳)大老に。将軍世子は慶福に

脚気衝心で家定死亡。35歳。

日米修好通商条約締結。(その後、各国と修好通商条約締結)

安政の大獄

「ペリー来航」時に父が病死して30歳で将軍就任。国政を取り仕切った阿部正弘は過労のため39歳で死亡(1857年)。

「将軍継嗣問題」で、一橋派と南紀派が争った。1858年、井伊直弼(南紀派)の大老就任を契機に、慶福(のちの家茂)が世子に決定した。また、井伊直弼による安政の大獄は、その後の動乱を生む。

★家定は1858年、35歳の若さで死亡。