~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「桓武天皇」の時代です。

「平安」時代に「雅」なイメージを持たれる人もいると思いますが、

それはあくまでも一部であって、

全体としては「あまりにひどい」時代だったので、願いをこめて「平安時代」と名づけられました。

わかりやすい例としましては、芥川龍之介「羅生門」です。

まずは、平安時代のトップバッター、桓武天皇時代はどうだったのでしょうか。

第50代:桓武天皇期(781年~806年)

【桓武天皇】

★班田収授励行のため、班田期間を6年から12年に。また、農民の負担軽減のため「公出挙」の利息を5割から3割に、「雑徭」の期間を60日から30日に。「勘解由使」も設け、国司などの交代時に不正がないかチェックした。

★王室の繁栄を願って子供を32人作ったことで、職にあぶれた子孫たちが地方に流れ、国司と組み簒奪を始めたことで社会が荒れた。

年表

794 平安京に都を移す

※ 現在の京都は秀吉時代の改革がベース。平安時代のままではない。 御所も江戸時代につくられたもので、当時の御所はもっと西。
※千本通が朱雀大路ではない。道幅も違うし。一条通、二条通、三条通といった通りも、平安京のそれに「該当する」だけであって、平安京の大路小路そのままではない。
どうしても平安京の面影を求めたいなら、東寺に行くと良い。東寺の境内地だけは平安京の区画がそのまま完全に残っている。
797 坂上田村麻呂が桓武天皇から征夷大将軍に任命される

清水寺を作ったのも彼。801年、4万の兵を率いて出発。
802 田村麻呂が陸奥国に胆沢城(いさわじょう)を築く

蝦夷の首長阿弖流為(アテルイ)とモレが田村麻呂に降伏し、処刑される
※田村麻呂は命乞いしたが許されなかった。ただし、これで終わりではなく、その後も蝦夷との戦いは続く。

♨最終的にひと段落するのは嵯峨天皇の時代。
805 徳政論争

今後の政治について参議の藤原緒嗣と菅野真道で話し合い。停滞していた蝦夷征討(軍事)と平安京の造営(造作)を停止することに決定した。 (藤原緒嗣:式家の意見が採用。もっとも出来レースに決まってるが。)
805 最澄が唐より帰国し、天台宗を広める

【最澄】…767~822年。滋賀県出身。804年唐に渡り、天台山で学ぶ。帰国後、比叡山に延暦寺を建て、法華経を中心に中国で広まった教えを広める。理論と実践を重視。 【遣唐使メンバーには空海、橘逸勢

東北経営の基地まとめ

試験に出やすい桓武天皇の1つの功績(?)は蝦夷征伐。

これを覚えたからってなんだと思うかもしれないが【日本史のココがダメ:悪問多すぎ】、こういうのが試験に出されるから困ったものだ。

たがやせ秋の田いざ、しあわせ
渟足柵 磐舟柵 出羽柵多賀城秋田城雄勝城 胆沢城 志波城
647648708724733759802803
孝徳孝徳元明聖武聖武淳仁桓武桓武

是非、石黒先生の書籍を買おう。【コチラ

※他にも、737年に牡鹿柵、759年に桃生城、767年に伊治城なども建築されております。

しかし、実際にどこまで統治できたのかは相当怪しいとも言われております。

こちらもオススメ。

藤原氏にとって最大のライバルは大伴氏であり、大伴氏は東北と関係が深い。

藤原氏の勢力と東北地方遠征はリンクしているという話も。

「最澄」についてもう少し!

【最澄】・・・767?~822。東大寺に反発し、独自の大乗戒壇の創設を目指す。著書に「山家学生式」(大乗戒壇の設立を主張)、「顕戒論」(南都諸宗に反対したもの)など。天台宗はのちに円仁の山門派、円珍の寺門派(三井寺)に分かれる。

弟子の泰範を空海に取られた(?)時、「最近どうだ?」ということを書いたのが最澄の「久隔帖」。

その返事が空海の 「風信帖」です。

竹内先生のコチラの書籍!

最澄空海
767-822774-835
滋賀県出身香川県出身
天台宗真言宗(大日如来、密教、金剛峯寺)
比叡山延暦寺高野山金剛峰寺
山家学生式
(さんげがくしょうしき:大乗戒壇の設立を主張)
顕戒論
(南都諸宗に反対したもの)
久隔帖
三教指帰
(さんごうしいき: 儒教・仏教・道教のうち、なぜ仏教が良いかを示す )
性霊集
(空海の漢詩文)
風信帖
「綜芸種智院」 設立
(庶民のため。大学別曹とはやっていることが反対。)

大学別曹

★和気氏→弘文院、藤原氏→勧学院、橘氏→学館院、在原氏→奨学院

※これもどういうわけかテストに良く出ます。

山門派が円仁、寺門派が円珍。

のちに天台宗は分裂します。

【円仁】

下野出身。838年、最後の遣唐使となる。9年6ヶ月に及ぶ日記である「入唐求法巡礼行記」は、評価が高い。

円珍は円仁に遅れて入唐。遣唐使船ではなく、民間商船で渡航した。この時45歳。密教を中心に学び、多くの典籍をもって帰国。根本道場として総持院をたて、天皇、貴族に灌頂・授戒をおこなうなど天台密教の確立につとめた。71歳で死去。知名度は最澄に劣るが実績は大きい。

(♨当時、民間商船があることにビックリ。)

<エッチな ジモン>(円珍→寺門派:園城寺、つまり出て行った方) と覚えるらしい。ダチョウ倶楽部もビックリ。

次章は平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の時代

Emperor Kammu was known for his conquest of Emishi and the construction of Heian-kyo. And his many children would later have a negative impact on Japanese society.