第52代:嵯峨天皇期(809年~823年)
さて、平安時代前期のキーパーソンは桓武天皇第2王子・嵯峨天皇。
桓武天皇の子女は32人ですが、嵯峨天皇の子女は47人でもあります。
【嵯峨天皇】・・・桓武天皇第2皇子。病気の兄より禅譲を受けて即位。蔵人頭に藤原冬嗣(&巨勢野足)を任命して、薬子の乱を平定。のちに警察的な役割を行う「検非違使」も設置。
上皇時代に弟・淳和天皇の子を無理やり皇太子にしたことは、承和の変(842)を招く。
三筆とも呼ばれる書の達人。
810 | 薬子の変(平城太上天皇の変) ※平城上皇が藤原薬子などと平城京へ都を移すことを画策するが失敗。嵯峨天皇は事前に秘書にあたる蔵人頭を設置して、 藤原冬嗣(北家)、巨勢野足を任命。 【平城天皇】退位後、奈良に移ってから元気に。再び政務に意欲が出て、「二所朝廷」と言われるくらい嵯峨天皇と対立。最終的には敗れるも、咎めはなし。出家。 【藤原薬子】…藤原種継の娘。皇太子時代の平城天皇と自分の娘が結婚した際に後宮入り(!)。夫の藤原縄主との間には三男二女がいて、30歳くらいにはなっていたであろうし、平城天皇とはおそらく10歳くらい年が離れていたが不倫関係に。怒った桓武天皇により宮廷から追い出されたが、平城天皇即位とともに復位。幅を利かせるようになった。ところが、一時引退していた平城上皇が嵯峨天皇との対立に敗れたことで一連の首謀者として官位剥奪、服毒自殺。(坂上田村麻呂も出陣)以後、藤原式家は衰退、北家が台頭。 【コチラもオススメ】 |
811 | 文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)、征夷大将軍として蝦夷の乱を平定 ※「薬子の変」では上皇方についていたが、坂上田村麻呂の献言で許された。 ※嵯峨天皇の代で東北三十八年戦争が終結。 坂上田村麻呂没 ※【坂上田村麻呂】758-811。蝦夷征伐だけではなく、「薬子の変」でも活躍。東漢氏の末裔。ちなみに 「あさぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に 降れる白雪」の坂上是則は坂上田村麻呂の4代後。 |
816 | 検非違使を設置 |
818 | 死刑廃止(保元の乱まで338年間続く。) |
820 | 弘仁格式を編纂(820年) |
823 | 大宰府管内に公営田を設置 |
♨朝廷が2つ…って、辛亥の変(欽明天皇期)の時代、および孝徳天皇時代にもあったっけ。
三筆(もう2人は空海と橘逸勢)
こういうのが「中国風」らしい。時代は下って「三蹟」の時代になると日本風となるらしい。(↓藤原佐理: 離洛帖 )
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令外官
律「令」以「外」の「官」位、ということで「令外官」。
嵯峨天皇時代に「蔵人頭」(810)、「検非違使」(816)が作られる。
令外官を設置したのは嵯峨天皇に限ったことではない。
中納言 | 705年、文武 | ※これ、試験頻出。中納言は令外官。 |
按察使 | 719年、元正 | 地方行政監察官 |
参議 | 731年、聖武 | ※これも頻出。 |
内大臣 | 777年、光仁 | 左右大臣に次ぐ |
征夷大将軍 | 794年、桓武 | 言わずもがな。 |
勘解由使 | 797年、桓武 | 国司交代の際の審査 |
蔵人頭 | 810年、嵯峨 | 機密事項の扱い |
検非違使 | 816年、嵯峨 | 京中の犯人検挙、訴訟、裁判 |
押領司 | 878年、陽成 | 盗賊らを鎮圧 |
関白 | 884年、光孝 | 内覧権(天皇に見せる文書を先に見る) |
追捕使 | 932年、朱雀 | 天慶の乱後、ほぼ常設。諸国盗賊を追捕。 |
三大格式
律令を補足した「格」と、施行細則である「式」を編纂。
弘仁格式 | 820年 | 嵯峨天皇、藤原冬嗣 |
貞観格式 | 869年、871年 | 清和天皇、藤原氏宗ら |
延喜格式 | 907年、927年 | 醍醐天皇、藤原時平・忠平 |
大宰府管内に公営田を設置
朝廷自ら直営田を経営するようになった。
勅旨田 | 807年~。平城天皇。皇室財政upを目指す。(~902年) |
公営田 | 823年~。嵯峨天皇。大宰府管内に設置。 |
官田 | 879年~。公営田にならい畿内に設置。 |
902年、「延喜の荘園整理令」で弊害の多かった勅旨田は禁止されるも院政時代に再び増加。
勅旨田とは王臣家が行った百姓の強制徴用と虐待と生活の破壊を、朝廷と国司が行っただけだ。しかも規模が半端ではない。この勅旨田は、もはや矛盾というレベルを超えて意味不明というしかない制度だ。
桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」