16世紀末、スペインはフィリピンまで征服していた。
距離的には日本にも到達できたが、当時の日本は武士たちの戦闘能力が高く断念された。
当時、世界の鉄砲の半分が日本にあったとも言われる。
豊臣秀吉による「伴天連追放令(1587年)」および「スペインへの臣従命令」は決して分不相応ではなかったのだ。
以下、読書メモ。
10.ポルトガル産硝石を求めた戦国大名たち
【マルコ・ポーロ「ジパング」の情報源とは】
★広大なユーラシア世界が初めて一体化し、グローバル・スタンダードが生まれたのは、13世紀のモンゴル帝国時代。9世紀には日本はイスラム人により「黄金の国」として伝えられているが、マルコ・ポーロがこれを後押し。コロンブスの航海につながる。
★世界史の教科書では喜望峰に初めて到達したのは1588年のポルトガル人、バルトロメウ・ディアスとされているが、どうも怪しい【コチラも】。ヴェネツィアの修道士、フラ・マウロは1420年ごろに到達している。ほか多くの無名の船乗りも到達しているであろう。ディアスの航海はこれらの証言により実現した者であろう。
【石見銀山を押さえた大内氏の盛衰】
★17世紀、世界の三分の一の銀が石見銀山で採掘された。守護大名の大内氏がこれを開発し、博多商人の神屋寿貞が灰吹法により銀の大量生産に成功した。
★ポルトガル商人は日本の銀を獲得しようと鉄砲と中国の絹織物輸出を計画。種子島の鉄砲伝来(1543年)は偶発的に生じたのではなく、起こるべくして起きたのだ。
【驚くべき速さで伝わった鉄砲技術】
★1511年、アルブケルケ率いるポルトガル艦隊はマレー半島のイスラム国家であるマラッカ王国に砲弾を撃ち込みこれを滅ぼすと、これらの地域を次々と攻略。目的は香辛料と中国進出。
★1517年、明に正式国交を求める使節を送るも、先に来ていたマラッカ王国使節が非道を訴えたため使節団は投獄され、消息不明に。しょうがないので倭寇と一緒になって密貿易にいそしむ。その後、大内氏も滅び、よりカオス状態に。
★1543年、ポルトガル人2人を乗せた王直のジャンク船は、種子島に到達。種子島時堯16歳はこれを2丁、数億円で購入。1丁は鍛冶職人・八板金兵衛にわたし、2年後に国産第1号が成功。もう1丁は紀伊の根来寺の僧兵隊長・津田数長が手にし、根来の刀鍛冶・芝辻清右衛門に預け、2年後にコピーに成功。
★清右衛門はのちに堺に移り、鉄砲を量産。根来衆は雑賀衆とも呼ばれるが、各地の大名に傭兵として仕えた。また紀州には一向宗も多く、数々の戦いで鉄砲が使用されている。種子島で複製された鉄砲は薩摩経由で13代将軍足利義晴に献上され、国友村の鍛冶職人たちに生産を命じた。国友村には織田信長も大量発注している。
★いずれにしても、伝来から2年後には生産されており、その流通の早さは恐るべし、である。
【火薬の原料=硝石輸入の窓口となった堺】
★鉄砲は生産されたが火薬の原料の1つである硝石は日本で手に入りにくかった。
中国産やインド産の硝石がポルトガル商人により密輸入され、堺に送られた。
堺の確保を目指す信長は義昭を奉じて入京し、1568年、堺を包囲。堺は一向衆とも結びついていたが、これにより信長のものに。
★九州勢も硝石欲しさにキリスト教に改宗する大名も。
【ポルトガルの「勢力圏」とされていた日本】
★1534年、イエズス会設立。1517年の宗教改革に対抗。
★1494年のトルデシリャス条約により、日本はポルトガルの勢力圏に。1549年、ザビエルはマラッカを出航し、日本へ。薩摩に辿り着く。島津貴久は1543年の大隅の薩摩統一戦で鉄砲を使用しており、日本で最も早く鉄砲を使った大名でもある。硝石の輸入に期待して南蛮貿易が開始されようとしたが、キリスト教と仏教が対立して、九州での布教は断念した。
★京都では応仁の乱で焼け野原。帰りに寄った山口で、布教を許され、500人が改宗。その後、偶然、大分に渡り、大友宗麟に布教を許される。
★ザビエル「日本人より優れた非キリスト教国民はいない。盗みの悪を憎み、交わり学ぶことを好む。また、これほどまで武器を尊重する国民に出会ったことがない。」
★ザビエルはその後、中国を目指すが途中で病死。つづいてヴァリニャーノが派遣される。彼により伊東マンショら天正遣欧少年使節団が編成。もっとも、8年の歳月を経て帰国した時は秀吉の時代になっており、伴天連追放令が出されており、1人は処刑、1人はマカオ追放、1人は棄教となった。伊東マンショは若くして病死する。 【コチラも】
【日本人奴隷貿易に加担したキリシタン大名】
★秀吉が硝石の輸入と引き換えにキリスト教を認めると言う基本方針を撤回したのは、ポルトガル奴隷貿易とスペインの軍事侵攻の影があった。
ポルトガル商人はアフリカ同様、捕虜となった日本人を奴隷として東南アジアに売っていたのである。
★大村純忠は領民6万人を強制的に改宗させ、拒むものを異教徒として奴隷としてポルトガル人に売り払っていた。
11.豊臣秀吉の伴天連追放令と朝鮮出兵
【九州が「フィリピン化」した可能性】
★16世紀はスペインの世紀である。1533年、インカ帝国を滅ぼし、新大陸の住民を奴隷として莫大な量の銀を手にした。征服したフィリピンにおいてはそれまでの歴史は断絶されており、宗教も改宗させられた。
★次のターゲットはオスマン帝国か、明か、日本であったが、「王をとらえる」という方式では日本は征服困難という事がわかったので、大名を改宗させてスペインの尖兵とする作戦をとった。ゆくゆくは彼らを使い、明へ攻め込む予定であった。
★織田信長の登場は彼らの予定を狂わせた。彼は自分自身を神として崇拝させることを目指していたからである。
★本能寺のあと、仮に室町幕府が再興され、中国、九州で群雄割拠が続けば、キリシタン大名がスペインと手を結び、九州が「フィリピン化」する可能性も十分にあった。
【日本への軍事侵攻を働きかけたのは誰か】
★ポルトガル商人がキリシタン大名と結び、日本人奴隷を輸出していたこと、イエズス会がスペイン国王に日本派兵を要請していたことは、軽視あるいは無視されてきて、殉教ばかりが称賛されてきた。
★秀吉は戦前では大陸雄飛の先駆者として讃えられていたが戦後は侵略者である。戦前の歴史を否定する歴史学者たち、ラテン語の文献が読めるカトリック系大学の研究者たちによって、真の歴史が見えなくなってしまってはいけない。
【「日本征服は不可能」と結論づけたスペイン】
★1587年、九州平定の際、秀吉は日本人が奴隷として輸出されていることを知る。さらに秀吉の目の前で日本準管区長ガスパル・コエリョが軍事デモンストレーションを行ったことで秀吉は激怒、翌日、伴天連追放令となる(1587年)。【コチラも】ただ、仏教を大事にすればよいとも。牛馬の食習慣も禁止。
★コエリョはマニラ総督に日本派兵を要請するが、当時、ヨーロッパの情勢も変化していた。というのはオランダの新教徒が反乱を起こし、エリザベス1世がこれを援助。1588年、無敵艦隊はアルマダの海戦で壊滅。20万人を動員できる秀吉に対抗はできない、というのが結論であった。
★イエズス会は武装解除、軍需物資の調達は禁止、保有する武器は売却。布教は禁止されたものの、宣教師の追放は行われず、彼らは長崎に。
【サン・フェリペ号事件と二六聖人の殉教】
★「アッジシの聖者」こと聖フランチェスコは13世紀に托鉢修道会を立ち上げる、これはイエズス会よりも3世紀前の事。イエズス会がポルトガル王室に許可されていたのに対して、フランシスコ会はスペイン王室から布教許可を得ていた。新大陸、スペインで布教し、18世紀にはカリフォルニアへ到達。この地はやがてサンフランシスコと呼ばれる。
★伴天連追放令を受けてフランシスコ会はチャンスととらえ、日本潜入を試みる。当時、ガレオン船にのってメキシコ銀をフィリピンに運び、中国の絹織物と交換していたが、土佐で難破。長曾我部元親は秀吉に報告し、五奉行の増田長盛が尋問にあたる。その際、「スペインはまず宣教師を遣わし、布教と共に征服事業を進める」と答えた。
★この報告を受けた秀吉は潜伏中のフランシスコ宣教師6人、日本信徒20人を長崎に送り処刑した。サン・フェリペ号は修理が許され、翌年、マニラに戻る。【コチラも】
【秀吉以前にも明国征服計画は存在した】
★秀吉の朝鮮出兵は日本史上の謎。ただ、信長は明国征服計画をもっていた。ヴァリニァーノによれば、
「日本は征服の対象としては不向き。国民は勇敢で、絶えず軍事訓練を積んでいる。しかし、日本にとって仇敵であるシナ征服における動員兵となり得る可能性がある」
とのこと。
★もっとも、イエズス会の目論見に反し、キリスト教弾圧に転じた秀吉がスペインよりも先に大陸へ進出することに。
【朝鮮出兵中、マニラにも服属を求めた秀吉】
★1590年時点で明は琉球経由で秀吉の戦争準備を把握していた。一方、朝鮮は派閥抗争に明け暮れ、何の準備もしていなかった。1592年開戦となるが、戦わずに逃げる国王一行を首都の民衆は見捨て、日本軍に協力するものが続出した。
★明への侵入に関してはヌルハチ率いる女真族がたちふさがる。1593年には明軍との全面戦争になるが、多くの犠牲が出て、両軍とも食糧難となり和平交渉に。ここで秀吉の案を降伏文書に偽造した小西行長、李如松であるが、明からの返書に秀吉激怒。1597年再出兵。
★1598年秀吉死去で撤退。もっとも秀吉は1594年、スペインにも服属と朝貢を求めていたというから驚きだ【コチラも】。スペインの返答は「対等な外交関係を望む」としたものであったが、これは秀吉の軍事力とスペインの凋落があってこそであろう。いずれにしても、軍事大国日本の台頭はイエズス会とスペイン王室によるアジア征服計画を挫折させた。
12.「鎖国」を成立させた幕府の圧倒的な軍事力
【徳川幕府の誕生とオランダの台頭】
★江戸幕府において、キリシタン大名は弾圧を受けた。大友宗麟の息子の義統は棄教、小西行長は関ヶ原で斬首、有馬晴信は疑獄事件(1612年の岡本大八事件)で斬首された。豊臣から徳川へ時代が移るにあたり、ヨーロッパでもカトリックのスペインから新教徒のオランダ・イギリスの勢力交代が起きた。
★厳格なカトリックであったフェリペ2世はオランダを相続すると、スペインの法律をオランダでも適応しようとして、次々に宗教裁判をかけ、カルヴァン派市民が処刑。そして、オランダ独立戦争(1568~1648年)が勃発。アントワープはスペイン軍の手におち、虐殺を逃れた人々は北方のアムステルダムに流れオラニエ公ウィレムを指導者としてゲリラ戦を展開。
★エリザベス1世は公然とこれを支援し、怒ったフェリペが大艦隊を派遣するが、1588年、夜襲を受けて壊滅的打撃を受ける(アルマダ海戦)。
★オランダ人は香辛料を求めてアジアへ。1603年にオランダ東インド会社が設立され、ポルトガルの拠点を次々と奪っていく。イギリスも1600年に東インド会社を設立していたが、アジアにおいてはオランダが圧倒的優勢であった。
★家康は関ヶ原の直前に豊後に漂着したオランダ船に乗っていたウィリアム・アダムズ(のちの三浦按針)【コチラも】、ヤン・ヨーステン(のちの耶楊子)からスペインの暴虐を聞くことになる。
【大砲の進化が世界の歴史を変えた】
★1588年アルマダ海戦でイギリスが圧勝したのは飛距離の長いカルバリン砲を用いたから。接近戦を想定していたスペインはひとたまりもなかった。石造りの城が基本であった西洋では、その必要性から大砲が発達し、コンスタンティノープル攻城戦(1453年)などですでに大きな役割を果たしていた。
【日本史上初の大砲撃戦だった大坂の陣】
★家康は大坂冬の陣を前にオランダ製カノン砲12門、イギリス製カルバリン砲4門、セーカー砲1門、カルバリン砲をモデルにした国産の芝辻砲1門を用意。700m先から狙い続け、そのうち1発が天守を直撃し、恐れをなした淀殿が和睦に応じる。しかし、この際、講和条約を破り、大坂城の外堀だけでなく内堀も埋めてしまう。夏の陣はあっという間に惨敗。
【海賊停止令と朱印船貿易の真実】
★伴天連追放令(1587年)の翌年、秀吉は刀狩令と海賊停止令を出す。秀吉の武力の前に太刀打ちできる海賊はもはやおらず、ここに日本の海賊の歴史は終わる。明との貿易は朝鮮出兵で途絶えるが、秀吉は海外へ渡航する商人には朱印状を発給して貿易を統制した。
★家康もこれを踏襲し、1604年に朱印船貿易を制度化。東南アジア諸国に商人は渡った。明との直接的な貿易はできなかったが、東南アジアで間接的に貿易することもできた。武器がだぶついたため、日本の武器は輸出品となった。
★また、スペインとの交易を行う交渉のためアカプルコに渡っているが、布教を求めるスペインと折り合いがつかず、交易がおこなわれることはなかった。この1607年の航行が初めて日本人が太平洋を横断した記録とされているが、実はこれまでも多くの奴隷が中南米を渡っている。
★1613年には伊達政宗が支倉常長をして国産船で石巻からアカプルコに渡り、そこからスペイン船に乗り換えて欧州まで到達しているが、やはり布教の問題などがあり、通商許可には至らず。【コチラも】
★徳川家は諸大名が西欧人との交易で強力な火器や硝石を手に入れることを恐れて貿易を一元化して管理することを決定。
【日本人傭兵が東南アジア史を動かす】
★武器に加えてもう1つの輸出品が「傭兵」。オランダはジャワ・スマトラに領土を拡げ、モルッカ諸島(アンボイナ島)からイギリス人を排除し、マラッカ海峡からポルトガル人を排除、香辛料貿易を独占した。平戸に商館を開いたオランダ東インド会社は日本製武器と日本人傭兵を積極的に輸入し、植民地拡大にあたった。徳川としても国内に浪人がうろうろしていると危険であり、海外に放逐することには治安維持の観点からも有益と判断した。
★1622年、英蘭連合艦隊がスペイン領マニラ、ポルトガル領マカオに対して合同作戦を行うに当たり、幕府に援軍を要請するが秀忠はこれを拒否、武器輸出も禁止した。これにオランダは「日本人傭兵・軍需品なしに東南アジアで戦争はできない」としてなんとか秀忠の歓心を得ようとするが不可能であった。
★1623年のアンボイナ事件ではオランダ・イギリスともに日本人傭兵を雇っており、日本人傭兵同士の対決となった。当時、オランダが世界貿易の50%を占めており、弱小国家であったイギリスはオランダを恐れて東南アジアから撤収、インド貿易に専念。平戸のイギリス商館も閉鎖し、オランダが対日貿易を独占することになる。
★マニラでは暴動を起こした中国人の制圧に日本人傭兵400人が使われた。しかし、今度は日本人が制御不能となり日本人を追放しようとするも暴動。1608年、日本側に取り締まりを求めると、「日本政府は関知しない。スペインの法で裁いてくれ」と。
★インドシナ半島では台頭するシャムのアユタヤ朝が東のカンボジア王国、西のビルマ王国と抗争。24代ソンタム王の時、ビルマとの戦いでポルトガル人傭兵はビルマ軍ポルトガル傭兵との同士討ちを嫌い戦力にならず、日本人傭兵を組織。山田長政はソンタム王に仕え、スペイン艦隊を撃破したことで傭兵隊長に昇格。1628年、ソンタム王の死後、王位継承をめぐって内紛が起き、山田長政は貿易を独占していた日本人に反発する華僑勢力によって殺される。同年、アユタヤの日本町は焼き払われる。 【コチラも】
★ベトナムでは南北に分かれハノイの安南王国(鄭氏)とフエの広南王国(阮氏)が争っていた。
【なぜ島原の乱にポルトガル人は不介入だったか】
★1608年、有馬晴信の朱印船がマカオ市民とトラブルになり、マカオの総司令官アンドレ・ペソアにより日本人60人が殺される。1610年、晴信は長崎でたまたまペソアを見つけ、家康の許可を受けてポルトガル船を攻撃。ペソアは自爆死。家康はポルトガル人を信用しなくなり、イギリス人三浦按針を重用。晴信はこの功績を梃子に旧領回復をめざし、本多正純重臣のキリシタン岡本大八に賄賂を贈るも、詐欺が判明。結局、両名とも有罪に。
★1612年の岡本大八事件を経て、幕閣にもキリシタンがいることがわかり、秀忠は禁教令を発する。有馬晴信の子・直純は棄教のうえ日向へ領地替え、棄教を拒否した高山右近はマニラへ亡命した。有馬晴信の領地であった島原はしばらく天領となった。その後も、徐々に貿易統制。【コチラも】
- 1633 第1次鎖国令
- 朱印状に加え、老中発給の奉書をもつ奉書船以外の海外渡航を禁止。
- 海外に5年以上居住する日本人の帰国を禁止。
- 1634 第2次鎖国令
- 第1次鎖国令の再通達。
- 1635 第3次鎖国令
- すべての日本人の海外渡航と帰国を全面的に禁止。
- 外国船(中国、オランダ)の入港を長崎だけに制限。
- 1636 第4次鎖国令
- 貿易に従事しないポルトガル人とその妻子(混血含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
- 1639 第5次鎖国令
- 島原の乱を受け、ポルトガル船の入港を禁止。
★1630~40年代は世界的に寒冷化。ロシアではステンカ・ラージンの反乱、中国では李自成の反乱が生じる。日本では島原の乱。この原因は島原に新たな領主として入った板倉重政・勝家親子の圧政によるものである。オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルは事情を完全に理解しており、「有馬の君主は他国へ移封されたが、臣下の多くは島原に残した。一方、新たな領主の松倉は多くの臣下を引き連れてきた。有馬の旧臣は歳入を奪われ、いずれも百姓となった。この百姓は名のみで、実は武器の使用に熟練した兵士であった。」と本国に報告している。反乱軍は3万7000人となった。
★最終的に幕府は知恵伊豆こと松平伊豆守信綱がやってきて、12万の大軍で原城を包囲。オランダ東インド会社に軍艦派遣を要請し、オランダ側もこれに応える。反乱軍はスペイン・ポルトガルの援軍を期待するも、当時、ポルトガル本国ではスペインに対しての独立運動が起こっており、それどころではなかった。
★1637年、スペインに対するポルトガル人の蜂起が始まり、1640年にジョアン4世がポルトガルの独立を宣言。反スペイン陣営の英蘭から独立承認と援軍を得る見返りに、ボンベイをイギリスに、モルッカ諸島をオランダに割譲した。こういった情報も幕府はつかんでいた。島原の乱後、1世紀に渡るポルトガルとの交易は断絶した。
★日本銀の流入が途絶えたマカオのポルトガル商人は恐慌状態に。貿易再開を試みるも、一行は死罪に。ジョアン4世はそれでもあきらめず、本国から特使を送るも、この動きはオランダにキャッチされ、幕府は迎撃態勢に。
★1647年、大砲20門を装備したポルトガル船2隻が長崎に来航し、長崎奉行は武装解除を求める。しかし、国王使節であることを理由に応じず。九州の諸大名が動員した4万8000の兵、900隻の軍船が突貫工事で長崎港を封鎖。これに対してポルトガル船は「新国王の即位を知らせるためで、通商は求めない」として封鎖解除。国書の進呈もされずに退去命令に従う。
★東南アジアでは暴虐の限りを尽くしたオランダ人も長崎ではおとなしくなり、オランダ商館長は毎年江戸まで出向いて将軍の機嫌をうかがい、国際情勢を提出。日本は征服不可能であり、貿易による利益を確保した方が得策と判断。
【「鎖国」という重武装中立のシステム】
★サン・フェリペ号事件、島原の乱などで、スペイン・ポルトガルによる軍事介入の可能性を感じた幕府は、鎖国政策をとった。これは外国船来襲時にはいつでも大軍を動員できるという圧倒的な軍事力がったからこそ可能であり、鎖国時代の日本は重武装中立国家であった。
★また、鎖国と言ってもオランダから絶えず情報を得ており、その中で必要なものだけを取捨選択することができたという点で、鎖国は日本にとって有益なものであった。【コチラも】
13.徳川の平和、そして明治維新を可能にしたもの
【江戸の花火ー大砲技術の平和利用】
★1613年、日本初の打ち上げ花火が行われる。エリザベス1世なきあとのジェームズ1世の使節が当時、駿府を訪れているが、駿府とロンドンが同規模と言っている。当時のロンドンの人口は7万5000人である。
★幕府はのち、徳川発祥の地である三河に火薬職人、鉄砲職人を集め、火薬と鉄砲の製造を独占。その結果、三河は花火職人も輩出することになった。鉄砲名人の稲富祐直は、通信手段として狼煙を進化させ、これを玩具にしたのが鍵屋弥兵衛で、その暖簾分けした番頭が玉屋清七。
【ロンドンの花火ー戦争の継続と技術革新】
★1733年当時の江戸の人口はおよそ100万人で世界最大規模。同時期のパリは53万人、ロンドンも同じくらい。人口は日本が2900万人に対して、フランスが2000万人、イギリスが675万人であった。もっとも清、ムガル帝国が最大。
★イギリスは自給自足ができなかったため絶え間ない戦争に巻き込まれる。しかし、これにより軍需産業が進歩し、火縄銃はライフル銃に(1850年代)、前装式の大砲は後装式のアームストロング砲に(1855年)、帆船は蒸気機関船に(1846年のビッドル時はまだ帆船、1853年のペリー時は蒸気機関)。
【なぜ日本は独立した文明を維持できたのか】
★かつて隋唐帝国の脅威にさらされながらも、日本人は帝国に組み込まれることを拒否。中華文明は換骨奪胎され日本文明となり、武士団と言う日本独自の階級を生み出し、元を撃退した。
★大航海時代には鉄砲と言う新兵器をたちまち国産化し、軍事大国になることで鎖国を可能に。
★西洋が軍事革命し、極東が征服可能となった時点でペリーが来航。しかし、ここから最先端の軍事技術をマスターし、死に物狂いで頑張り、ペリー来航の4年後には国産初の反射炉が建設、1905年でバルチック艦隊を撃破。
★その半世紀後にアメリカに負けて壊滅的になるが、その四半世紀後には世界2位の経済大国に。
★日本だけが植民地化を逃れることができたのは、戦国時代に軍事力が高く、鎖国のブランクなどがあっても潜在能力は高かった、というのが原因であろう。
★それぞれの時代のグローバリズム、覇権国家に常に抵抗しつつ、先進文化は貪欲に吸収し、独自の文化を守り抜いた、日本人とはそういう人々なのである。
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